力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。
この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。
今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。
恐妻家だった「関ケ原の功労者」「福島 正則(ふくしま まさのり)」
「このたびのことは生涯忘れぬ」
関ケ原の合戦の後、家康は福島正則に安芸備後の四十九万八千二百石を与えたが、この感謝の言葉は、いかに正則の存在が、東軍の勝利に大きな力を発揮したかを物語るものでした。
関ケ原の戦いを前にした七月、正則は会津の上杉景勝を討つため下野・小山に向かいます。
そこで、家康から石田三成挙兵を知らされます。
「おのおの方の妻子は人質として大坂城にある。ここを引き払って三成に味方しようとも決して恨みには思わぬ。遠慮はいらぬ。思いどおりになさるよう。」
しばしの沈黙があったが、それを打ち破るように正則が、
「すべて三成が謀ったこと。八歳の秀頼公にこのようなお考えはあるはずがない。他の方々はどうあれ、自分は家康殿に味方する。」
といい、この一言が勝負の明暗を分けました。
慶長五年(1600)関ケ原において、正則は東軍の先鋒として大活躍。
小山の会議に同席していた諸将たちが力を発揮したことはいうまでもない。
関ケ原の戦いは、正則にとってはあくまで豊臣家の為の合戦でした。
このことを心得ていた家康は、慶長十九年(1614)の大坂冬の陣、翌元和元年(1615)の夏の陣では、正則には出陣を命じないで江戸城に置いて監視。
なぜなら、裏切りを恐れたからです。
家康が死んで二代将軍・秀忠が実権を握ると「関ケ原の功労者」の地位は薄らいでいきます。
大坂の陣で豊臣が滅び、徳川幕府が揺るぎないものになると、豊臣の息のかかった大名たちを取り潰そうという動きが顕著になったのです。
正則は、正しく豊臣と共に生きた武将であり、大恩を受けた豊臣家への思いは深いものがありました。
秀吉の母が病に伏した時は、徹夜で看病。
秀次が切腹を命ぜられ、その場に立ち会った正則は、いつまでも涙を流し続けました。
また、正則は人情味溢れる豪の者でした。
この正則も、夫人にだけは頭が上がらなかったというから面白いものです。
ある日、帰宅した正則を一本の長刀が襲いました。
正則が、別の女性に心を奪われたことを知った夫人が、嫉妬して斬りつけたのです。
後に正則は、
「百戦戦って敵に後ろを見せたことはない。しかし今度ばかりはとうとう敵に後ろを見せてしまった。」
と家臣達に話したといいます。
家康に「巧者」と評された男「加藤 嘉明(かとう よしあき)」
天正十一年(1583)三月、秀吉と柴田勝家が戦った「賤ケ岳の戦い」は、秀吉の勝利で幕を閉じます。
賤ケ岳に向かっていた秀吉が勝家軍に攻撃を仕掛けたとき、九人の武将が先を争って進み出ました。
一番槍の手柄は福島正則、脇坂安治、加藤清正、加藤嘉明ら九人の武将でした。
このうち二人が戦死し、後年残った七人を「賤ケ岳七本槍」と呼びました。
この七人のなかで、武功派と呼ばれた加藤清正、福島正則らに比べ、加藤嘉明は余計はなことは口にしないで黙々と事にあたる異色の人物でした。
嘉明は、永禄六年(1563)三河・長良郷生まれ。
通称は孫六、後に左馬助と名を改めます。
天正五年(1577)十五歳で秀吉に仕え、それぞれの戦いにおける戦功より、冷静沈着で豪胆な性格を表わす逸話の多い武将でした。
あるとき、家来が焚火にあたっていました。
退屈しのぎに、家来の一人が焼けた火箸を逆さに立て「熱い!」と、知らずに持つ者を驚かせようと思いつきます。
次々と引っかかったのを見てはしゃいでいると、そこへ嘉明がやってきました。
息を呑む家臣達の前で、嘉明が焼け火箸を掴んでしまいます。
嘉明の掌から煙が立ったが、嘉明は何事も無かったかのように、平然とその逆さまの火箸で灰に一の字を書き座を離れました。
そして、家来を咎めることはしませんでした。
秀吉の死後、打倒家康を画策する石田三成、小西行長ら文官派と、福島正則、加藤清正ら武功派がことを構えようとしていた時も、嘉明は冷静に事に当たっていました。
嘉明は、家康の前に出てこう言いました。
「世は騒然としていますが、もはや何事も起こりますまい。手元に待機していた五十騎のうち、二十騎は国もとの伊予(愛媛県)に帰しました。残り三十騎はいつなりともご用立ていたします。」
慶長五年(1600)いよいよ関ケ原が決戦の場となります。
当日、西軍の敗走が始まると、東軍は逃げる兵を追いかけ、諸軍の陣形は乱れました。
しかし、嘉明の軍だけは、一糸乱れぬ陣形を保っていました。
さらに嘉明は、死に物狂いの敵兵が、せめて大将の首をと狙われないように敗走する敵兵の前では、甲胄を地味なものに付け替えた。
これを聞いた家康は「何事につけ左馬助の巧者なることよ」と感嘆したそうです。
水の都を創ったキリシタン武将「田中 吉政(たなか よしまさ)」
筑後の領主として柳川の地を治めた田中吉政は、関ケ原の戦いにおける功績によって、ここに三十二万石を与えられます。
また、土地の特色を生かし経済的基盤を安定・拡大させ、水運の利の向上を目指す政治を行いました。
吉政は、元は信長幕下で三千石を領していた宮部善祥坊に仕えていましたが、次第に頭角を現して信長と秀吉に引き立てられます。
その後、豊臣秀次に仕えたとき、近江国(滋賀県)琵琶湖畔の高島郡安曇川出身である吉政は、近江八幡城の際に街と琵琶湖を結ぶ「八幡堀」を開削。
天正十八年(1590)の小田原攻略においては、箱根の山中攻めに功を挙げて、岡崎城五万七千四百石を領し、七つの町を囲む「田中堀」や「岡崎の二十七曲り」と呼ばれるクランク状の道を造りました。
文禄三年(1594)には、三河・西尾城城主となり、二年後には秀吉の偏諱を受け、吉政を名乗ることになります。
秀吉の没後は、家康方に就いて会津征伐に同行しましたが、石田三成挙兵の報に接して迅速に対応し、その活躍によって筑後を領することになります。
元々、柳川には沖端川(矢部川)を利用した水域がありました。
規模は、砦ほどでしたが立花宗茂によって拡張され、そこに吉政が水都としての構想を実現したのでした。
西北の沖端川と東の塩塚川を外濠とする東西二キロ、南北四キロの大きさの城に、吉政は四十メートルの高さを持つ五層八棟造りの天守閣を建てます。
そうした事業を進める一方で、吉政は秀吉の切支丹迫害下に、一族を挙げて受洗したことでも知られています。
自らは、バルトロメヨという洗礼名を受け、家臣八百三十名も集団受洗したといいます。
「我は思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、色赤きびいどろを。」
柳川出身の北原白秋の名を一躍世間に知らしめた詩集「邪宗門」には、キリシタンのイメージがこのように表現されています。
吉政は、極めて頻繁にキリシタンと親密な交流を図りました。
琵琶湖畔に生まれ育ち、大陸・朝鮮文化が敦賀(福井県)から琵琶湖の水運によって、大津経由で京や大坂に流れ込む様子を熟知していた吉政は、貿易による利益の重要性を強く認識していたのです。
波濤万里を越えて日本に辿り着いた文化から、いかに大きな発展がもたらされるかを知っていた吉政には、先見の明があったといえるでしょう。
慶長十四年、江戸参勤の途中において六十二歳で病没しました。
温厚、真面目、寛容の人「羽柴 秀長(はしば ひでなが)」
秀吉の全国統一の翌年、秀吉は陰りの前兆ともいえる弟・秀長の死に見舞われます。
何ものにも代えがたい秀長の死は、秀吉にとって辛い試練でした。
何故ならば、秀長は、何処までも秀吉を守り立ててくれる縁の下の力持ちであるにも関わらず、秀吉を出し抜いて政権を奪おうという野心など決して持たない人物だったからです。
秀長は、秀吉より三歳年下の弟で、従来の説からゆくと異父弟ということになっています。
が、恐らく二人は同父ではなかったかと思われます。
秀長の秀吉に対する態度は、どう見ても同父としか考えられない駆け引きなしの忠誠心があるからです。
秀長は、温厚で真面目一本の性格で、小一郎と称していたころから、秀吉に尽くし続けます。
山崎の合戦では明智光秀と戦い、中国征伐でも大いに武功をあげ、賤ケ岳の戦い、小牧の戦い、紀州征伐にも抜群の働きを見せます。
特に、四国征伐においては、秀吉の名代として讃岐・伊予・阿波を下し、土佐の長宗我部元親を降参させ、僅か五十日で四国の平定を成し遂げるという名将ぶりを遺憾なく発揮。
秀吉はこの目覚ましい働きに対し、それまでの所領に大和郡山(奈良)を加えることを許し、秀長は百万石の領主となります。
続いて、九州征伐にも先鋒として参戦し、島津軍を撃破。
これ以降、秀長は大納言に叙せられて、絶頂のときを迎えますが、惜しくも病に倒れて天正十九年(1591)五十一歳の生涯を終えます。
寛容な性格だった秀長は、ともすれば度を越しがちな秀吉をよく補佐し、その欠点を補う役目を果たしていました。
諸大名が、秀長をパイプ役として秀吉への執り成しを図り、うまく事が運ぶという例も多かったのです。
秀長が燃え尽きるようにしてこの世を去ると、秀吉を抑える者が誰もいなくなります。
位人臣を極めた秀吉に暗雲が垂れ込め始めたのも、秀長の死と無関係ではありません。
秀吉は、長年楽しみも苦しみも分かち合った名補佐役である弟の死を心から悼んで、葬儀も盛大に営みました。
さらに、愛児・鶴松の死に遭遇した秀吉は、後継ぎとして甥の秀次を選んで関白職を譲ります。
そして、朝鮮出兵を企て、諸将を疲弊させるという愚挙に挑む事になるのでした。
信頼できる係累に恵まれなかった秀吉にとって、秀長は貴重な存在でした。
もし秀長が長命を保っていたなら、豊臣家が滅亡することはなかったと思われます。
まとめ
いかがでしたか。
「力こそが正義」
動乱の時代だった戦国時代。
守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。
裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。
様々な敵に翻弄される現代。
この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。