戦国時代4選【大村純忠/ヴァリニャーノ/有馬晴信/龍造寺隆信】 ~実力者がのし上がる「下克上」が盛んだった戦国時代最強は誰だ!~

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力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

港を開いた日本最初のキリシタン武将「大村 純忠(おおむら すみただ)」

永禄六年(1563)一つの港が焼滅します。

それは、横瀬浦(長崎県)でした。

この年、大村純忠は度々、横瀬浦を訪れています。

そして、五月にはこの地で洗礼を受けます。

それは、日本で初めてのキリシタン大名の誕生でした。

しかし八月には、ポルトガル人たちの間で「お助けの聖母の港」と言われていた横瀬浦は、火につつまれます。

純忠の義理の弟である後藤貴明が、兵を起こして純忠の館を攻めたからでした。

そのため、横瀬浦も日本人商人とポルトガル人との争いが起き、火が放たれました。

純忠は、大村家・十八代の領主で、天文二年(1533)に、有馬晴純の二男として島原に生まれます。

そして、天文七年(1538)大村純前の養子となります。

しかし、純前には既に妾腹の実子・貴明がいました。

結果、貴明は純忠のために後藤氏へ養子に出されます。

貴明はこれによって、生涯を通じて打倒純忠を掲げることとなります。

純忠が大村家を継いだときは、石高五千石程度の大名に過ぎませんでした。

が、純忠の支配する横瀬浦がポルトガルとの南蛮貿易を行うことになって、多大な利益をもたらすことになりました。

そして、横瀬浦が開港されたことによって、キリスト教は大村領に急速に広まっていきます。

その横瀬浦の教会では、純忠は毎日、午前三時から祈ったという。

合戦によって横瀬浦が貿易港の機能を失ったため、長崎がこれに代わって元亀二年(1571)ポルトガル船が初めて入港しています。

純忠の影響を受けた長崎城主・長崎勘左衛門も洗礼を受けます。

勘左衛門は大村家の重臣で、その妻は純忠の娘でした。

勘左衛門は純忠に倣って宣教師を保護し、布教を認めます。

そこで伝道を始めたのが、先に横瀬浦を「聖母の港」と称した宣教師ルイス・アルメイダでした。

また、純忠は領国を治めるに際して、全領民の改宗による統一を目指します。

これは天正二年(1574)を境に断行され、その結果、大村領民約六万に対し改宗者は四万ともいわれました。

しかし、大村領におけるキリスト教保護政策も長くは続かず、慶長十七年(1612)の幕府による全国禁教令によって事態は一変。

三歳で洗礼をうけた純忠の嫡男・喜前がイエズス会と断交し、多くの領民が棄教。

さらに喜前の子・純頼が、領内の宣教師・信徒をより一層厳しく迫害して、純忠の蒔いた種を根こそぎ滅ぼしました。

信長に愛された宣教師「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」

サビエルの上陸から十年後の永禄二年(1559)、京都・四条坊門姥柳町(京都市中京区蛸薬師通室町西入ル北側)に南蛮寺(教会)が建てられ、信徒は三万に達していました。

天正七年(1579)には、日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日し、天正九年には安土で全盛を誇る信長に謁見して、城下にセミナリオ(神学校)を設立することになります。

長崎から車で橘湾(千々石湾)に沿って走って小浜に向かい、さらに南下して口之津へ。

口之津は何の変哲もない港町です。

そこにヴァリニャーノが上陸し、日本布教の方針を定めた「口之津会議」が開かれたり、南蛮船が往来したりした国際的なウォーターフロントであったことを知る人は少ないはずです。

口之津の唐人町が、かつて港として賑わったことを知る者は、さらに少ないでしょう。

だが、ここからすぐ近くの加津佐で戦国時代に活版印刷が行われ、異国の珍奇な品物やパードレ(神父)が南蛮船で往来していたのです。

いまでは寂れた港町に過ぎないですが、当時の繁栄をおもうと、時の流れに直接触れているような気持ちになってきます。

口之津から右手に湯島(談合島)を見ながら海岸道路を島原市方面に向かうと、間もなく島原の乱で有名な原城跡があります。

さらに北上すると有馬の日之枝城跡で、典型的な平山城の跡となります。

城主・有馬晴信の居館は、華麗なものでした。

今ではこうした栄華の痕跡は残されていませんが、ここは極めて画期的な出来事があった場所でした。

ヴァリニャーノが、この地にもセミナリオを建てたのです。

そこでは、まだ幼さを残した少年たちに、高度な学問が教えられました。

十六世紀の日本で、既に彼らはラテン語を話し、オルガンやギターを演奏し、哲学まで論じ合っていました。

今でいう中学校にあたるこの学校は、日本の学校教育の出発点であったといえます。

一方、全盛期を迎えていた信長の安土城の麓には、既に高山右近の助力による立派な修道院が建てられていました。

安土城の天守閣のそれと同じ青い瓦で葺かれた三階建てのセミナリオが、城下にそびえ、有馬のセミナリオと同じ様式の建物で、そこは有馬と同じ規約と規則で運営され同じ時間割で授業が行われました。

ヴァリニャーノが日本を離れるとき、丁度お盆で、信長は安土城天守閣を色とりどりの提灯で飾りつけ、松明を持った群衆を整然と並ばせて光のページェントを行ったといいます。

流刑にされたキリシタン大名「有馬 晴信(ありま はるのぶ)」

慶長十七年(1612)三月、二人の男が対決します。

それは、有馬晴信と岡本大八。

岡本大八は、本多正純の家臣でキリシタンでした。

この大八と晴信の間に、贈収賄が明らかになります。

大八はその事実を白状して入牢となり、牢中で、実は晴信が長崎奉行・長谷川左兵衛を暗殺する計画を立てていたと、訴え出たのです。

その審議の場面で、晴信は一言も申し開きをすることができませんでした。

吃音者であったからだともいわれていますが、晴信は甲斐の都留郡に配流となり斬罪に処せられます。

「岡本大八事件」と呼ばれるこの事件には、慶長十五年(1610)に起こった晴信によるポルトガル船焼討ちの一件が絡んでいました。

二年前、マカオに立ち寄った晴信の朱印船上で、ポルトガル人と日本人が諍いを起こして両者に多数の死者がでます。

これを聞いた家康は、ポルトガル船を焼き払うように晴信に命じます。

大八は、ここで誘いをかけます。

晴信にこの焼き討ちの功労に対して、有馬氏の旧領地の肥前・三郡を与える意向があると本多正純から聞いたと、偽りの朱印状を見せ、これに晴信が引っ掛かかります。

晴信は、何とかこれが実現するようにと、せっせと岡本宛に金銀を送ったが何の音沙汰もない。

慌てた晴信は本多正純の所に駆け込んだが、そのような事実はないと突っぱねられます。

このことをきっかけに、先の暗殺計画が露見して晴信は罪を問われました。

晴信は、大村純忠、大友宗麟が亡くなったあと、キリシタン大名の中心的存在でした。

慶長五年(1600)のイエズス会の年報に、次のような報告があります。

晴信自らが

「行く先々で直ちに人々を集め、自ら人々に向かって自分の意図と希望を述べ」

「立派なキリスト教徒として生きていくように」

積極的に呼びかけている、と。

しかし、これらキリスト教の布教により、晴信にとっては、イエズス会を通じて得られる海外貿易の利益の方が重要でした。

その証拠に、晴信は交易推進の為に非人道的なことも行います。

慶長十八年(1613)、イエズス会司祭の書簡に次のような一節があります。

「有馬の地全土が苦悩におおわれた」と。

この書簡によると、晴信はイエズス会の申し出があったとはいえ、少年少女を進物として提供し、家臣も右に倣えと、家来たちから何人かを奪って売ったり贈与したりしていました。

人々は何とかこの難から逃れようと、子供を隠したり他の家に預けたりしました。

晴信にとっては、海外貿易のもたらす利益の方を優先していたことを物語る書簡です。

血で血を洗った戦国大名「龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)」

龍造寺隆信は、天文十五年(1546)に水ヶ江龍造寺の家督を相続して胤信と名乗り、二年後には村中龍造寺胤栄が病没したので、龍造寺家を統合します。

そして、当時強力な力を誇っていた周防の大名・大内義隆の一字を貰って元服して山城守隆信と改めます。

天文二十年(1551)、大内義隆が陶晴賢に討たれて滅亡すると、隆信は後ろ盾を失います。

さらに、豊後の大友宗麟の勢いが大きくなると、龍造寺の家老・土橋栄益らが大内氏に内通して隆信を暗殺しようとします。

栄益は、村中龍造寺胤栄の旧臣で、隆信を嫌っていました。

また、隆信は胤栄の未亡人を妻とし、その遺児を養女としていました。

しかし、その未亡人もまた、隆信に心を許すことはありませんでした。

この家中の乱れを、栄益は見逃さなかったのです。

佐賀城を追われた隆信は、筑後・柳河(柳川)に難を避けて蒲池氏を頼り、同二十二年(1553)には、佐賀城を回復して栄益を誅殺します。

盛期には、五州二島の太守と称された隆信でしたが、血で血を争う姿が印象深い。

永禄三年(1560)の長者林の争いのとき、小織田政光が先陣として奮戦して隆信に援軍を請うたが、隆信は平然と見殺しにしています。

将来の離反を恐れたとはいえ、政光の居城に軍勢までも差し向けています。

永禄八年(1565)ライバルである神代勝利が死去して嗣子・長良の子二人も死去すると、隆信は弔問の使いを差し向け、翌朝奇襲して所領を奪います。

その後、天正元年(1573)から六年ほどで肥前一国を平定したころ、隆信は猿楽に興じたり雄興に耽っていたといいます。

その件について鍋島直茂が諫言しますが、かえって筑後へ遠ざけられます。

天正十一年(1583)、肥前の有馬義純が薩摩の島津氏の応援で隆信に背いたため、同十二年、隆信は自ら出陣します。

有馬・島津の連合軍と筑後の高来郡(島原)で戦いましたが、三月二十八日、敗北してしまいます。

運命尽きた隆信の前に、薩摩の物頭・川上左京亮忠堅が、介錯のため近づきます。

その時、隆信はこう尋ねました。

「そなたは大将の首をいかに切るのか知っておるか」

それに対し忠堅は、

「いかなるかこれ剣刃の上」

と反問します。

そのとき、隆信はこう答えました。

「紅炉上一点の雪」

熱い炉の上に一片の雪を置くと、すぐに消えてしまう。

そのように、すっきり悟りが開けたよと。

まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。 この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。 ...

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