戦国時代4選【竹中半兵衛/狩野永徳/豊臣秀吉/蜂須賀小六】 ~実力者がのし上がる「下克上」が盛んだった戦国時代最強は誰だ!~

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力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

僅か十七名で城を落とした名軍師「竹中 半兵衛(たけなか はんべえ)」

永禄七年(1564)竹中半兵衛が稲葉山城から帰ろうとした時、城主・斎藤龍興の側近たちが櫓の上から下を通る半兵衛に小便をひっかけます。

半兵衛の舅・安藤伊賀守守就が、龍興の所行が良くないと諫めて謹慎に処せられていたことから、半兵衛に対しても側近の者たちが馬鹿にすることがしばしばありました。

そして、半兵衛の髪は滴が垂れるほど小便で濡れますが、黙ってそれを拭いてさりげない風を装ってその場を立ち去ります。

しかし、半兵衛の腹の中は、龍興をはじめ寵臣達への怒りであふれていました。

半兵衛は、稲葉山に人質として置かれている弟・久作が病気になったのを幸いに、看病と称して医薬品を積んだ荷駄を城内に運び込みます。

刀や槍などの武具を入れた長持を、見舞いの品々であると偽ったのです。

半兵衛一党は、半兵衛を入れ総勢僅か十七名であった。

夜のうちに武装し、当直の斎藤飛騨守らを片っ端から斬り倒します。

この奇襲に龍興は動転し、城外へ命からがら脱出。

そして、龍興を城から追放したことで半兵衛の気持ちは収まり、非を詫びた龍興に城を返しています。

半兵衛はその後、自分は謀反を起こしたとして栗原山に閉居。

この半兵衛に目を付けたのが秀吉でした。

秀吉は粘り強く説得にあたり、ついに口説き落とします。

以来、半兵衛は黒田官兵衛と共に秀吉を支え、「漢の良平」(張良と陳平)と例えられる程の名軍師となります。

ある時、官兵衛が知行を増やすという秀吉の奉書を見せ「空証文だ」と嘆くと、半兵衛はいきなりそれを破って火鉢の中に投げ捨てます。

「このような紙切れを持っているからいつも加増が気になってしまう。知行は奉公に励めば必ず増えていくものだ。」

と諭したといいます。

半兵衛はその後、姉川の合戦、長篠の合戦、中国攻略部隊の先鋒として、手腕を発揮。

中でも、三木城の兵糧攻めは、半兵衛なしでは成り立たなかった策でした。

が、三木城の陥落を見ずに、半兵衛は発病してしまいます。

結核に冒されていた半兵衛は、秀吉の勧めで京都で療養しますが、回復の見込みがないことを悟ると「同じ死ぬなら戦場で」と、再び帰陣して三木城に対面する陣屋で息を引き取りました。

桃山文化を彩った天才画家「狩野 永徳(かのう えいとく)」

安土城は壮大な威容を誇り、聚楽第は華麗な佇まいを見せる当代最高級の建築物でした。

そして、その室内を飾る絵画も、超一流でなければなりませんでした。

そこで選ばれたのが、桃山文化を彩った天才画家・狩野永徳と、その工房。

永徳の絵筆からは、魔法の様に雄大で豪華絢爛たる作品が次々と生み出されました。

当時の絵画は、襖や屏風などに描く障壁画が中心で、金箔や緑青を多く用いた金砦の彩色が盛んに行われました。

その主流である狩野派の地位を飛躍的に高めた豪放な永徳の障壁画は、信長や秀吉を始め多くの武将から愛されます。

安土城の障壁画は、永徳が中心となって制作。

聚楽第や大坂城、正親町院御所などの室内も、永徳の作品が見事に飾ったといいます。

ただ、戦乱の定めで、多くの作品が硝煙の中に失われてしまいました。

現存する代表作に「洛中洛外図屏風」と「唐獅子図屏風」があります。

「洛中洛外図屏風」は天正二年(1574)に、その強大な武力を恐れた信長が、越後の上杉謙信に贈ったものです。

つまり、謙信懐柔策の貢ぎ物というわけですが、天下取りの有力な武将であった謙信は、この屏風をどんな思いで眺めたのでしょうか。

その裏には、火花を散らす二人の男の駆け引きが見えてくるようです。

また「唐獅子図屏風」は、中国攻めを行った秀吉が、和睦を結んだ毛利家へ贈ったものだと伝えられています。

戦国の覇者から重く用いられた永徳は、狩野派を興した室町時代の大家・狩野元信の孫にあたります。

元信には三人の息子がいたが、いずれも絵師として狩野派を支えていくだけの才能・器量は持ち合わせていませんでした。

「自分が死んだあとの狩野派のゆくすえが案じられる」

老いた元信の憂いは、その一点に尽きました。

そこに生まれたのが、永徳でした。

元信は、永徳がごく幼いころから画法を教え、それは次第に熱気をはらんだものになっていっきます。

なぜなら、元信も舌を巻くほどの大器の片鱗を、しばしば見せるようになったからでした。

狩野派の将来に光を見出した元信は、永徳を溺愛。

天文二十一年(1552)正月、元信は将軍・義輝のもとへ伺候したとき、九歳の永徳を伴っています。

永徳にとって、祖父と暮らした十七年間が、いかに大切なものであったかが知れよう。

判断力と勇気、知恵、周到な計画と幸運に恵まれた男「豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)」

天正十年(1582)六月三日、秀吉が毛利氏攻略の足がかりとして、備中・高松城(岡山県)を水攻めにしていた雨の夜。

本能寺で信長を強襲した明智光秀が毛利氏へ送った使者を捕えます。

毛利軍と間違えて秀吉軍に迷いこんだ使者であり、その男は信長の死を伝える密書を持っていました。

その使者が毛利軍に到着すれば、毛利氏は光秀と謀って秀吉を挟み撃ちにできました。

間一髪でその状況を知った秀吉は、早急に予定を変更して素早く行動。

まず、毛利氏の襲撃を避ける為に、和解を成立させて通常一、二か月かかる水攻めから早急に撤退し、六日には全軍で姫路城へ向けて出発します。

備中・高松から姫路までを、秀吉軍はなんと二日で走破。

道中は雨でぬかるんだ悪路であり、兵は刀槍や銃を担ぎ、鎧兜を被った総計約二十、三十キロほどの重装備で、その様な悪条件下にあって、粗悪な草鞋・足半でたった二日間で約百キロ走り抜けたことは、奇跡としか言いようがないでしょう。

秀吉は、九日朝には姫路を出発し、兵庫へ向かいます。

十日には尼崎に到着し、十二日には秀吉軍の先鋒は、光秀軍と小競り合いを開始していました。

佐和山城や長浜城(滋賀県)を攻略して秀吉軍を山崎(京都府乙訓郡)で迎え撃とうとしていた光秀は、秀吉軍の行動の素早さを信じられず、愕然としていたことでしょう。

秀吉との合戦の前日、光秀は

「予がごとく大利を得たる大将には、いかなる天魔波旬も向かわざるものぞ」

(信長を倒した我々には、どんな神でも悪魔でも立ち向かうことはできない勢いを持っている)

と虚勢を張って見せたが、実際はうろたえていたと思われます。

秀吉の優れた所は、他にもありました。

山城の村にいる土民達に、敵軍の道を塞いで落武者を見つけ次第殺すよう、緊急に動員令を出していたのです。

十三日、光秀は一万六千の兵を従えて、秀吉軍を迎撃。

夕刻に始まった合戦は初めは互角に展開しましたが、程なく光秀軍が完敗。

光秀は勝龍寺城(京都府長岡京市)に退却し、居城だった近江・坂本を目指して落ち延び、小栗栖(京都市伏見区)を通過中に、藪に潜んでいた土民に竹槍で突かれます。

光秀を護衛していた兵士が土民を追い払ったものの、光秀自身が諦めて自害。

秀吉が出した、落武者は見つけ次第殺せという動員令の効果でした。

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義侠心にあつい豪勇「蜂須賀 小六(はちすか ころく)」

阿波・徳島(徳島県)二十五万七千石の基礎をつくった蜂須賀小六正勝ほど、実像が歪めて伝えられている人物もいないでしょう。

テレビや映画では、野盗の首領あがりで粗野にして激情家、単純な男として描かれることが多いですが、実在の小六は優秀な政略家でした。

小六が世に出るきっかけが、有名な墨俣の一夜城での働きであることは確実。

美濃の斎藤龍興を攻めるには、出城(前線基地)が必要で、それに最適な墨俣地区に信長は幾度となく築城を試みさせましたが、斎藤勢の妨害で失敗を繰り返していました。

その時に、足軽頭の藤吉郎が提案したのは、地理に明るく機動力もある小六たち地侍に守らせて、その間に築城を進めようという計略。

墨俣築城に成功した後、小六は藤吉郎の配下に加わります。

その後、数々の武功をたてた小六は、天正十年(1582)山崎の戦いで明智光秀を討つと、秀吉は大坂城外に小六用の大邸宅を建てています。

それ以降、石田三成が力を得るまで、豊臣政権の政事を一手に取り仕切ることになります。

小六は、武力だけでなく、民事や外交にも卓越した能力を発揮した、優秀な人物でした。

中でも一番の業績は、秀吉が天下を掌中に収めた後、中国の毛利氏と交渉して定めた領土境界の締結でしょう。

本能寺で織田信長が殺されたとき、秀吉は慌ただしく毛利との和睦を取りつけ、大返しして光秀を討ちます。

そのため、領土については細部まで決められてはいませんでした。

そこで、秀吉の代理として、小六と黒田官兵衛が毛利に出向きます。

秀吉は、毛利家から備後、備中、出雲、伯耆、美作の五か国を割譲させようとしましたが、交渉を円滑に進め、しかも禍根を残さない為に、小六は三か国割譲に条件を緩めることを秀吉に承知させています。

それでも、割譲が決まった美作や備中などの諸城では、明け渡しに難色を示して徹底抗戦の構えさえ見せたのでした。

知らせを受けた秀吉は、焼き払ってしまえと激怒したが、小六はこれらの城主を説得するための粘り強い交渉を続けました。

その甲斐あって、三年後には毛利家との間に、領土の境界が正式に取り決められます。

その功労に対して、小六は従四位下修理大夫に任じられます。

天正十三年(1585)の四国征伐では、軍目付を務めた小六ですが、長年の忠勤に秀吉は阿波・徳島(徳島県)二十五万七千石を与えました。

まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。 この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。 ...

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