戦国時代4選【武田勝頼/九鬼嘉隆/明智光秀/森蘭丸】 ~実力者がのし上がる「下克上」が盛んだった戦国時代最強は誰だ!~

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力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

滅亡の坂を転落した信玄の息子「武田 勝頼(たけだ かつより)」

勝頼は、武田信玄の四男として生まれ、信玄が元亀四年(1573)四月十二日、五十三歳で信州・伊那の駒場で病没すると、勝頼は後継者としての道を歩むことになります。

父・信玄は、自分自身を不動尊だと信じていました。

そして、宿将達にも、そうだと信じさせる力を持っていました。

戦国初期の指導者には、神仏のような権威と神秘的な存在であることが求められていましたが、若い勝頼は、輪郭がはっきり見える人間的なタイプの統率者でした。

また、勝頼には直情的で状況の全体図を見失いがちなところがありました。

木を見て森を見ず、物事を解決するのに短兵急すぎるきらいがあったのです。

永禄六年(1563)箕輪城(群馬県箕郷町)攻略の時、勝頼は初陣で豪勇をもって知られる藤井友忠を討ち取ります。

斥候に出ていた所を見つけて、跳びかかって転落した藤井の首をとって大得意であったといいます。

これは、武勇の将として格好はいいですが、一軍の将のやることではない。

またこれと似た発想で、長篠の合戦に臨んで総攻撃を決定し、信長・家康連合軍に大敗。

長篠の合戦で大敗したあと、勝頼は軍団の立て直しを図ります。

小田原の北条氏・謙信と共に、新たに三国同盟をする動きも見せます。

宿将達の深刻な派閥争いを抱えながらも、新府城(山梨県韮崎市)を築いて防衛体制も整えました。

しかし、謙信が急死したあとの信長の成長は予想を遥かに上回っていて、その怒涛のような攻撃に対し、立ち向かうことはできませんでした。

当たるところ敵なしの信長の軍団が、甲斐侵攻に取り掛かると、勝頼側の各地の武将は高遠城(長野県上伊那郡高遠町)の仁科盛信が頑強に抵抗した以外は、次々と信長側に寝返って降伏し、僅か二か月ほどしか住まなかった新府城に火を放って逃げなければなりませんでした。

三月十一日、勝頼主従が最後の抵抗を試みて討死すると、十九歳の夫人を始め、残された者全て自害。

勝頼は、ひたすら自らが甲斐源氏・武田家の当主として、父・信玄に勝るとも劣らない人物であることを証そうとする気持ちに急がされていました。

巨大な父親の影に背中を押され、自滅に向かって一直線に生きた勝頼は、戦国の無常の象徴であり、誕生した瞬間から滅亡への道を生きるべく運命づけられていたといえるのではないでしょうか。

日本最強の水軍を率いて自刃した海賊大名「九鬼 嘉隆(くき よしたか)」

日本の水軍(海賊)としては、村上や雑賀などが知られますが、実は伊勢・志摩を拠点とした九鬼水軍こそ日本最強の水軍でした。

そのリーダーが、九鬼嘉隆です。

九鬼水軍の船は、当時の常識を超えた巨大戦艦で幅十三メートル、長さ二十二メートルほどもありました。

しかも、船体には鉄装が施され、大砲や長銃を装備していました。

織田に属して力を発揮した嘉隆は、鉄砲によって武田勢を壊滅させた信長の先進的な思考に触れていました。

それに、水軍の大将としての嘉隆の資質が加わり、鉄砲装備と鉄張りの巨大戦艦が誕生したのです。

七艘の巨大戦艦を押し立てた嘉隆は、村上水軍や雑賀の水軍を撃破。

その功績によって、伊勢・志摩三万五千石を与えられ、鳥羽城を築いて主となります。

いわゆる海賊大名である。

九鬼水軍のこの栄誉は、嘉隆の合理的な考え方によるところが大きいです。

朝鮮の役に際し、水軍大将に任ぜられた嘉隆は

「軍議は多数決に従う」

「戦功は横取りしない」

「危機に瀕した船は誰の船であろうと救援する」

などの取り決めを行います。

合理的な決断と行動が、軍の安全を保障するという嘉隆の持論に基づくもので、それは新しい海洋戦略のあり方といってよかったものです。

また、嘉隆は進取の気概に満ちた武将でした。

しかし、この朝鮮の役で嘉隆率いる日本水軍は、惨敗を喫します。

島と潮の流れを知り尽くして奇略を次々と繰り出した名将、李舜臣の朝鮮水軍に敗れたのです。

その責めを負って嘉隆は隠居し、家督を息子の守隆に譲ります。

この父子は、関ケ原の戦では敵同士になります。

守隆が徳川方についたのに対し、嘉隆は西軍に味方しました。

決して積極的参戦ではなかったが、石田三成からの要請を聞いているうちに、嘉隆の気持ちが揺らぎます。

朝鮮の役での口惜しさは忘れられず、九鬼嘉隆がまだ健在だということを知らしめてやろうという気持ちが、西軍への参戦を決意させたといっていいと思います。

また、どちらの陣営が勝ったにせよ九鬼水軍は生き残ることができる、という合理的でドライな思考もはたらいていたはずです。

しかし、この決断は守隆へは伝えられませんでした。

騙すなら、味方も完全に騙さなければならない。

父の離反を知って慌てた守隆は、家康に異心のないことを報告しています。

関ケ原の合戦のあと、嘉隆は英虞湾内答志島の和具浦に潜居していましたが、守隆の決死の助命嘆願が認められたことを知る前に、自刃して果てました。

完璧だった信長暗殺の計画「明智 光秀(あけち みつひで)」

天正十年(1582)五月十七日。

明智光秀は、織田信長から備中・高松城(岡山県)を水攻めにしている羽柴秀吉後援を命じられた瞬間に、信長暗殺の実行を決意します。

光秀は、信長旗下の有力武将がいま現在置かれている場所を繰り返し検討確認し、それを牛のように反芻します。

まず、光秀自身が接待役を勤めて安土城を出た徳川家康は、僅かな人数を連れて堺見物をしている。

滝川一益は、上野・厩橋(前橋)に入部したばかりだし、柴田勝家は越中・魚津を包囲して上杉景勝と戦っている。

丹波長秀は、四国遠征のため大坂・住吉から進発するところであり、羽柴秀吉は先に述べた通り備中・高松城を水攻めにしていて、行く手を遮る者は誰もいない。

では、分別も知恵もある五十五歳の光秀がなぜ、信長襲撃を決意し、それを実行に移したのでしょうか。

たしかに、信長の非情と冷酷が、光秀に反逆の決意をさせた側面を見逃すことはできません。

しかし、目的は一つしかありませんでした。

この時期、信長は既に日本の中枢部三十数か国を領国に治め、天下布武を実現させようとしていました。

その信長を倒し、光秀は天下統一の大業を自らの手で完成させたかったのです。

それは、乱世に武将として生きる男ならば、当然の野望でした。

五月二十八日、光秀は愛宕山に詣でそこに参籠。

参籠とは「おこもり」つまり、籠りきりで祈願することです。

熟睡できないまま迎えた翌二十九日が、後に様々な解釈を生むことになる連歌の会です。

「時は今あめが下しる五月かな」(光秀)

連歌の会を終えると、光秀は愛宕山から亀山へ帰り、何食わぬ顔で日頃の仕事を繰り返します。

同じ五月二十九日、信長は秀吉のもとへ就くため、京都に入って本能寺を宿舎としてます。

既に信長の長男・信忠(岐阜城主)が、二十一日に二条・妙覚寺に入っていました。

光秀が物頭を集合させて進発の命令を出したのは、六月一日、申の刻(午後四時)です。

信長が陣立の様子を見たいといっているから出陣すると触れさせて、二時間後には亀山の東の条野に兵を集結し、五人の宿老に真意を告げています。

ただし、光秀は最も信頼できるこの五人の宿将も信頼していませんでした。

それは、彼らから計画を口外しない、光秀に背かないと、起請文を書かせた上、人質まで取ったことからも容易に想像できます。

光秀は、何処までも疑い深かったのです。

光秀が亀山を発ったのは、六月一日亥の刻(夜十時)です。

京都までは五里(二十キロ)程で、ごく普通に歩いても五時間あれば到着できます。

光秀軍は、本来ならば三草越えで中国へ向かう筈ですが、亀山から老ノ坂に向かいさらに東の沓掛へ向かいました。

西の刻(午後六時)頃になると、妙覚寺にいた信忠らが本能寺に来訪して酒宴になりました。

酒宴が終わった後、信長・信忠父子は、寂光院の僧・日海と名人といわれる梶尾李賢の碁の対局を見ます。

そして、信忠が宿所の妙覚寺へ帰り、信長は寝所に入ります。

つまり、信長は近侍七、八十名に守られていたとはいえ、全く無防備で素裸も同然でした。

光秀は、天野源右衛門(安田作兵衛)の一隊を先発させます。

京の町を偵察させると同時に内報者の動きを封じる為で、光秀は天野に「内報する者あらば斬り捨てよ」と命じます。

信長暗殺だけを目標にした特別の一隊を設けていたのです。

沓掛を出た全軍が桂川を渡ると、光秀は将兵の火縄に火を点じ、新しい草鞋・足半を履けと命じます。

武者揃えの筈だが、という兵たちの訝かりはすぐに解けます。

本能寺を攻撃するという軍命が発せられたからです。

光秀が本能寺を完全に包囲したのは、六月二日(新暦七月一日)未明。

黎明の薄い光が、辺りを領しはじめていました。

光秀はまず、一斉に鉄砲を撃ちかけて木戸を破り、或いは築地を越えて本能寺に乱入。

その銃声や怒号を耳にした信長は、家中の者同士の喧嘩かと思ったが、すぐ光秀謀反と分かって「是非に及ばず」と言います。

いいも悪いもない、やむを得ぬ、仕方がないこれで終わりだという意味で、信長らしい潔さでした。

既に光秀は、信長暗殺の特別な一隊を設けて、それは天野源右衛門隊だったと述べましたが、信長の顔を見知った者を中心とする腕利きを使ったことは、まず間違いないでしょう。

光秀は、連歌を好み字も上手く、咲庵と号して風流韻事を解しました。

普段の言葉使いも丁寧で、傲ったところが無かったといわれています。

が、それだけではなく、秀れた武将としての条件を充分に備えていました。

ルイス・フロイスが指摘しています。

「彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、それを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」

そして、そういう光秀の奇襲計画に、遺漏があるはずもありませんでした。

光秀は、信長暗殺を完璧にやってのけたのです。

信長自慢の「理想の秘書像」「森 蘭丸(もり らんまる)」

ある朝、森蘭丸の前で明智光秀が食事をとっていました。

光秀は、飯を口に入れたまま何か考え事をしていた為、箸を落としたことに気づいていません。

やがて我に返ると、箸を拾って再び飯を食べます。

この光秀の様子を、蘭丸は見逃しませんでした。

光秀は何か企んでいると感じ、織田信長に知らせます。

しかし、信長はそれに一切取り合いませんでした。

蘭丸は、森可成の次男として生まれました。

父・可成は美濃・金山城主でしたが、斎藤道三に追われ、天文二十三年(1554)信長に仕えるようになります。

その後、合戦で手柄を立て、永禄八年(1565)金山城(岐阜県可児郡兼山町)を与えられます。

元亀元年(1570)五月には、戦功により近江の宇佐城主となったものの、九月、浅井・朝倉軍に攻められ、敗死しました。

可成の跡を継いだのは、蘭丸より十三歳年上の長子・長可でした。

天正五年(1577)当時十三歳であった蘭丸は、弟の坊丸・力丸と共に、信長の小姓となります。

蘭丸は、美しく秀才で、その逸話も数多い。

蘭丸が小姓となって間もない頃、信長が厠に入っている間、蘭丸に刀を持たせておいた時のことです。

蘭丸は、信長を待つ間に、鞘の刻みの数を数えていました。

ある時、信長は他の小姓たちも集まっているところで、

「この刻みの数がいくつあるか当ててみよ。言い当てた者に刀を与えよう。」

と言いました。

皆それぞれ思いつくままに数を口にしましたが、ただ一人蘭丸は黙っていました。

その理由を尋ねられて、蘭丸はこう答えます。

「既に数を数えて知っておりますので。」と。

信長はその正直さを誉めて、蘭丸に刀を与えます。

天正十年(1582)三月、武田攻めで蘭丸はさしたる戦功は無かったものの美濃・岩村城(岐阜県恵那市)の川尻秀隆に代わって城主となります。

そして六月二日早朝、運命の時がきます。

光秀の謀反によって、信長は本能寺で討たれます。

蘭丸を始め坊丸、力丸、小河愛平、金森義人ら百二十余人も討ち取られました。

女房達もこれに続き、十八歳だった蘭丸は、白小袖で着て修善寺の平元結で髪を茶筅髷に結っていたといいます。

信長は生前、側近や諸大名に、俺は三つの自慢できるものがあるといったそうです。

第一は奥州から献上された白斑の鷹。

第二は青の鳥。

第三に蘭丸だといったという。

まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。 この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。 ...

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