戦国時代4選【黒田如水/蒲生氏郷/浅野長政/加藤清正】 ~実力者がのし上がる「下克上」が盛んだった戦国時代最強は誰だ!~

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力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

秀吉が最も恐れた心を許しがたき武将「黒田 如水(くろだ じょすい)」

天正五年(1577)の信長の中国侵攻に際して秀吉に属した如水は、長男・松寿丸(後の長政)を人質として信長に差し出します。

いよいよ、毛利との決戦となる翌年四月。

備前・岡山城主・宇喜多直家が三木城へ援軍として駆けつけ、秀吉は直家が初めに攻めた阿閉城に如水を送ります。

如水は兵を少なく偽装するため、幟や旗を隠させました。

侮った直家の兵が城壁に登るのを確認してから、弓と鉄砲で敵を総崩れにさせます。

さらに如水は、自ら直家に会って秀吉への協力を約束。

如水は、参謀として順調に成長するかに見えました。

しかし、思いもかけぬ事態が如水を待ち受けていたのです。

それは、摂津・有岡城主・荒木村重の信長に対する裏切り。

毛利方についた村重を親交のあった如水が説得に当たりましたが、村重は逆に如水を城中の獄に幽閉。

如水が村重方についたと判断した信長は、人質の松寿丸を殺せと命じます。

けれども、秀吉の参謀を務めていた竹中半兵衛は、松寿丸を処刑したと報告し、実は密かにかくまっていました。

翌天正七年(1579)有岡城は落城し、如水は救出。

獄中生活によって、如水は片足の自由を失っていました。

天正十年(1582)六月二日、本能寺の変が起こります。

備中・高松城を水攻めにしていた秀吉は、この衝撃的な凶報の前に言葉がありませんでした。

そこへ、すかさず如水が囁きます。

「今こそ殿が天下を取られる好機。ご運が開けるときです。」

秀吉の天下統一に果たした如水の役割は大きかったのです。

しかし、秀吉のすぐ後ろから一段ずつ階段を登り始めた如水の胸には、いつか自分が天下を取ろうという野心が膨らんでいました。

関ケ原の合戦が始まると、如水・長政親子は、ともに徳川家康に味方。

如水はこの戦いが長引くと判断し、その間に九州の北半分を席捲することを考えます。

しかし、如水の誤算は、関ケ原の戦いが一日で終わったことでした。

関ケ原の合戦後、長政が九州に凱旋したとき、褒め言葉を期待した長政に如水は「天下のうつけ者め」と言い放ちます。

なぜ、家康を討たなかったのかという意味でした。

四年後、如水は自分の死期を悟ると、急に粗暴な君主に変貌。

それは「私が死んだ後、多くの者がほっとするように」という長政への心憎い配慮でした。

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左遷された文武兼備の名将「蒲生 氏郷(がもう うじさと)」

信長は、蒲生氏郷のことを「眼精常ならず」と言いました。

それは、目の輝きが普通ではないということです。

秀吉は、「この男はわしに似ている。わしのやろうとすることをやってしまう。恐るべき男だ。」と言いました。

千利休は「日本の武将のなかで一人いるか二人いるかの文武兼備の名将である。」と言いました。

氏郷は、弘治二年(1556)近江・日野の中野城に生まれます。

近江・蒲生郡の日野城主・賢秀の長男です。

信長は官名である「弾正忠」から「忠」の一字を取り、忠三郎と名乗らせて小姓の一人に加えます。

この氏郷の資質を見抜いた信長が、冒頭に述べた発言をしたのです。

信長は娘・冬姫との結婚を示唆し、氏郷は日野へ戻ります。

氏郷は信長に従い、大きな功績を挙げました。

しかし、本能寺の変が起こると事態は一変し、氏郷親子は信長の家族を日野の城に引き受けます。

信長亡き後、氏郷は秀吉に仕えました。

後に、氏郷は秀吉から会津(福島県)を与えられましたが、この件について一体誰が適任かを秀吉が近習たちと話していたときの逸話が残されています。

殆どの者が「細川忠興」の名を挙げましたが、秀吉は「汝ら愚もはなはだし」と言って、氏郷の名を挙げて指名したといいます。

秀吉はこの時、自分の袴と氏郷の袴を交換しています。

秀吉が氏郷を会津へ赴任させたのは、そばに置いておくと危険だからという説もありますが、実際は氏郷が会津に行けば、関東の徳川家康、奥州の伊達政宗を牽制できるという狙いがあったからです。

天正十八年(1590)のことで、この赴任の命令を聞いた氏郷は、涙を流しました。(「名将言行禄」)

本来なら、伊勢・松ヶ島十二万石から四十万石への大栄転であるはずなのに、です。

それは、嬉し涙ではなく悔し涙でした。

氏郷は涙の理由を「都の近くにいれば、いつかは天下への望みも持ちえただろうに。」と述懐したといいます。

また、氏郷はキリシタンで、受洗名をレオンといいました。

戦国当時は、信仰というよりむしろ西洋の宗教、新しい知識を得るという感が強かったのですが、氏郷もまた例外ではなかったように思えます。

氏郷は領国の経営にも秀でていて、城下に多くの商人を集めて日野を繁華な町に育てたので、この地から日野商人が出ています。

氏郷は文禄の役に出陣して、名護屋に滞陣しているときに発病し、四十歳で京都で没しました。

死の床には、キリシタン大名・高山右近が付き添って最期を看取ったといいます。

状況分析に長けた秀れた内政家「浅野 長政(あさの ながまさ)」

浅野長政の妻・ややと、秀吉の妻・ねね(北政所)は、腹違いの姉妹でした。

つまり、長政と秀吉は義兄弟で、縁者の少なかった秀吉にとっては、力強い存在でした。

長政は、九州攻めや小田原攻めなどで、戦功をあげています。

しかし、才能が遺憾なく発揮されたのは、外交や内政を担当した時でした。

五奉行の筆頭に名を連ね、京都奉行や検地奉行を歴任するなど、秀れた内政家として手腕を発揮。

ただし、秀吉亡きあとは、豊臣家を見限ってしまいます。

天正二十年(1592)肥前の名護屋(佐賀県)の陣中にいた秀吉は、

「留守を徳川殿に任せ、自ら大軍を率いて朝鮮に渡る。」

と言い出します。

その時、秀吉を「狐憑き」と罵って諫めたのが、長政です。

「いま日本を留守にすれば、国内の治安は乱れる。渡海はやめ、朝鮮に派遣した軍勢も引き上げるべき。」と諭しました。

「狐憑き」呼ばわりされた秀吉の怒りは収まらず、長政は切腹まで覚悟。

長政が秀吉に仕える情熱に燃えていたのは、この辺りまででしょう。

長政は、発言力を増す石田三成とは、長年の不和の関係にありました。

また、長政は豊臣政権下で自分の果たせる仕事に、限界を感じ始めていました。

そして「狐憑き」の諫言の六年前に、長政は徳川家康と出会っています。

小牧・長久手の戦いの後、秀吉は家康と和解するための方法として、異母妹・朝日姫を家康に嫁がせます。

その交渉役を務めたのが、長政でした。

優れた官僚であることを見抜いた家康は、長政を厚遇し、長政もまた家康の器量の大きさに感服。

そして、五奉行の筆頭に名前を連ねていた長政は、秀吉の死後は一人別行動をとるようになります。

慶長五年(1600)の会津攻めには、嫡男・幸長と共に参戦し、関ケ原の戦いでも東軍に加わります。

大坂の陣では、豊臣方を討つ側に回りました。

秀吉の遺児・秀頼に対しては、情愛はあるが周りを固めているのは石田三成らでした。

義姉の北政所(ねね)は、淀君に追われ大坂城を後にしていました。

こうした状況に加えて、家康との親交が長政の人生に重い意味を持ち始めていました。

豊臣か、徳川か。

最終的にそれを決定させたのは、冷徹なまでの状況分析と決断力を備えた長政の官僚としての判断でした。

長政は、家康と碁がたきの間柄で、しばしば身分を忘れて勝負に熱中。

六十五歳で没しますが、その日を境に家康は碁をやめたといいいます。

「清正に超えたるはなし」と評された実践派「加藤 清正(かとう きよまさ)」

清正の名を知らしめたのは、天正十一年(1583)の賤ケ岳の戦いでした。

清正、福島正則らは、後に「賤ケ岳七人衆」と呼ばれる程の活躍でしたが、実際には九人で、二人が戦死したのです。

この戦いの勝利に貢献した清正は、三千石に加増されて物頭に昇進。

この後、天正十六年(1588)清正は、肥後の半国二十五万石の領主となります。

そして、残りの半国を受け持ったのが、清正の生涯の敵ともいわれたキリシタン武将の小西行長でした。

清正は、母の影響を受け、熱心な法華信者でした。

このため、北半分は日蓮宗寺院で満ちており、南はキリシタンが多いという反目しあう土地となります。

文禄元年(1592)清正は小西行長と共に、先鋒として朝鮮に出兵。

しかし、清正は慶長元年(1596)行長、石田三成らの画策によって閉門となります。

しかし、同年七月の大地震のとき、謹慎中にも関わらず伏見城に駆けつけ、秀吉を運び出した誠意が認められて許されます。

この話は、後世「地震加藤」として知られ、芝居にもなっています。

慶長五年(1600)の関ケ原の戦いでは、家康について勝利に貢献した清正は、キリシタン領である因縁深い行長領を吸収し、肥後五十四万石の領主となります。

この時既に、行長領の信者は十万人に達していましたが、キリシタン達は清正の弾圧を恐れて他領に逃亡。

清正は、海外交易の布石として宣教師を保護しましたが、長くは続きませんでした。

慶長八年(1603)と同十三年、独自にキリシタン弾圧を行い、多くのキリシタンが殉教したことを考え併せると、清正はキリシタンが生理的に嫌いだったと思われます。

慶長十六年(1611)秀頼と家康の対面の労をとった後、清正は肥後へ帰る船中で病に倒れ、熊本へ着いて一か月後に生涯を閉じます。

あまりに急なことで、毒殺説も流れました。

清正は自他共に認める武闘派、つまり実践派であり、小西行長ら文官派とは体質的に相容れないものがありました。

しかし、清正が民政に尽くしたことも、忘れてはならない一面です。

また、清正の指揮によって造られた名古屋城、そして居城の熊本城を見ると、敵には登りやすいと見えながら実際には滑りやすい石垣づくりなど、築城には天才的な工夫が見られました。

後に、荻雄徂徠が清正を評して、こう述べています。

「近世にて人の手本となるべきは、加藤清正に超えたるはなし。学者了簡あるべきことなり」(「鈴禄」)

まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。 この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。 ...

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