「戦国時代」伝説の有名人図鑑4選【上杉謙信/種子島時堯/ザビエル/大友宗麟】 ~武将たちが命を懸けて天下統一を夢見た「戦国時代」の逸話や出来事とは?~

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力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

毘沙門天になった男「上杉 謙信(うえすぎ けんしん)」

謙信は、思春期に精神の中心に仏教(真言宗)を据えます。

天室光育の影響も受け、自らを摩利支天の生まれ変わりであると考えて、毘沙門堂に入って祈る習慣を身につけます。

自分は一種の宗教家だと信じるようになったのです。

彼は一言でいえば純粋でした。

それも病的なほど純情であり、この純情さは対女性だけではありませんでした。

戦国時代は、スレッカラシが生き残る時代であったが、謙信は一生純情であろうとしました。

天文二十一年(1552)、謙信二十三歳のときから二十七年間、死に至るまで三国峠を越えて関東に十四回攻めて出ていますが、全てひとえに純情さの発露でした。

常に、天皇、公卿、将軍など、旧体制を信奉し大義名分を重んじる中世的な保守派として生きたのです。

謙信といえば武田信玄を連想しますが、両者は川中島(長野県)において計五回その知恵と力を競い合いました。

謙信が純情な理想主義者とすれば、信玄は権謀術数に長けた冷静なリアリストでした。

両者の戦いは容易に勝敗がつかず、互いに「勝った」と宣伝して終わることになります。

謙信は、征服した領土を全く私有しませんでした。

謙信にとって大切なのは大義名分であり旧体制であり、その上にある仏教的な信義だから現世的な領土的な野心は全く無かったのです。

敵に塩を送ったというエピソードに見られるように、謙信は姑息な手段は嫌いました。

例え、これが後世の作り話だとしても、謙信にはそれに相応しいキャラクターと魅力が備わっていたということだと思います。

金銀に関しては、早くから佐渡の金鉱に着目し、これを秘かに採掘していました。

そして、正円形の金貨を発行するなど、経済的な感覚も当代一流であったと思われ、新税を課さないようにするなど民政にも意を砕きます。

でなければ、七十余回の出陣に領民が黙って従うはずもありません。

謙信の好んだ酒は少しずつ、だが確実に躰を蝕みます。

高血圧症です。

それは、謙信四十九歳の春に唐突にきます。

天正六年(1578)三月九日、厠で倒れたのです。

一期の栄は 一杯の酒
四十九年は 一酔の間
生を知らず また死も知らず
歳月ただこれ 夢中の如し

これは、信長が想像するだけで慄え怯え脂汗を額に滲ませたという、謙信の辞世の詩です。

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歴史を変えた鉄砲の技術とは「種子島 時堯(たねがしま ときたか)」

天文十二年(1543)八月二十五日。

この日、種子島の南端の門倉岬西ノ村の海岸に、一隻のジャンク(戎克船)が漂着します。

乗っていた三名のポルトガル人は、日本人に衝撃を与えました。

「鉄炮記」(南浦文之著)に「奇怪」とあるように、種子島の人々の目には、彼らの高い鼻や瞳や肌、髪の色は見たこともないものだったからです。

また、理解できない言葉を話し、膨らんだ長い袋のようなズボンを履き、つばの大きい帽子を被っていたに違いありません。

さらに奇妙だったのは、彼らは長さ1mほどで真っすぐな鉄の筒を持っていたこと。

その筒の一方は塞がなければならず、小さい穴が横にあって、これは火の通る道。

変わった珍しい形をしたもので、小さな船の玉を妙薬と共に用いる。

つまり、爆発音とともに火を噴いて標的を射抜く鉄の棒でした。

いうまでもなく鉄砲であり、鍛造で銀と真鍮の象眼が施された銃身の長さ692mm、口径17mm、肉厚3mmで、火門も鉄製でした。

彼らが種子島に持ってきた火縄銃は、当時ヨーロッパで使用されていたものではなく、東南アジアに普及していたマラッカ銃に近い鉄砲であったという説があります。

また、そのころのポルトガルには、鉄砲の修理工場はあったが製銃工場は存在せず、専らドイツのズール地方で製造されていた鉄砲を千挺単位で輸入しており、種子島に伝来した鉄砲はポルトガル製ではなく、ドイツ製であった可能性もあります。

鉄砲がどこの国でつくられたかということも重大だが、もっと重大なことは島主・種子島時堯が鉄砲を見て、極めて俊敏的確に反応したことでした。

「鉄炮記」によれば、僅か十六歳であった時堯は「希世の珍なり」と思ったといいます。

世の中にこんな珍しいものがあるのかと感嘆して、直ちに金二千両で二挺の鉄砲を購入。

金二千両というと、一両を約五万円から六万円に換算すれば、約一億円から一億二千万円であり、これは種子島家でただちに支出できる額ではありません。

おそらく「金」ではなく、当時の主要通貨であった「銀」で二千両であり、これだと四千万円前後で無理をすれば捻出できる額であったと思われます。

時堯は、そのコピーの製造を刀鍛冶である八板金兵衛、火薬の調合法を家臣の篠川小四郎に研究するように命じます。

これが日本の近代化、現代社会に向かう道を切り拓くことになりました。

日本人が初めて鉄砲を見たのは、蒙古が襲来した文永十一年(1274)であったといわれています。

しかし、鉄砲製造の記録は種子島漂着以降のことで、どういうわけか製造に関する明確な記録は、蒙古襲来から二百七十年も経てからとなります。

鉄砲の銃身は鉄の筒であり、その製造はさほど難しいことではなく、刀鍛治の技術をもってすれば、至極簡単にできました。

十六世紀中期における西欧と日本の工業技術のレベルに、そう差はなかったからです。

問題は後端部、筒底をどのように塞ぐかで、つまり鉄砲製作に関する技術上の最も大きなテーマは「ねじ」で、八板金兵衛はここで行き詰ってしまいます。

日本人は滑車、楔、梃子などの技術は知っていたが、何故かねじだけは種子島にポルトガル人が漂着するまで知りませんでした。

日本人の技術的な構想力の中には、ねじというコンセプトが生まれなかったし、それを見たことも聞いたこともないのだから、金兵衛が行き詰ったのは無理もありませんでした。

だが、金兵衛を中心にした技術者たちは、ねじを造ることに成功します。

どのような試行錯誤を繰り返したかが具体的にわからないのが残念ですが、極めて短時日の間にそれを完成させます。

一方、火薬の調合法の研究を命じられた篠川小四郎も、それをつきとめます。

「ゑんせう」(硝酸カリウム)と「すみ」(木炭)の粉と「いわう」(硫黄)を混合した黒色火薬で、ポルトガル人たちが教えようとしても言葉が通じなかったから、単純に白い結晶体(硝酸カリウム)七割五分と硫黄を一割五分、木炭を一割という混合率で混ぜてよしとしたらしいです。

しかし、硫黄と木炭は簡単に入手できても、まだ硝酸カリウムの製法は伝えられず、硝石だけは中国やシャム(タイ)からの輸入に頼らざるを得ませんでした。

このような種子島の鉄砲製作の技術と火薬の調合法は、津田監物丞や、その弟の紀州・根来寺(和歌山県)の杉坊明算らによって、いち早く畿内に伝えられ、天文十三年(1544)には鉄砲に関する噂を聞いた和泉(大阪府)堺の橘屋又三郎が種子島を訪れて、八板金兵衛から技術を学びます。

又三郎はその技術を堺へ持ち帰って「鉄砲又」と言われるようになり、堺は鉄砲製造と火薬の供給源として歴史の表舞台に登場してきます。

これらの技術は、近江の国友などに伝わり、鉄砲は急速に全国へ広まっていきます。

確かに、種子島に伝来した鉄砲は、ポルトガル製ではありませんでした。

それも初伝ではなかったが、重要なことは種子島の当主・種子島時堯が、ただちにその研究とコピーの製造を命じた結果、日本人はたちまちのうちに鉄砲を大量生産の軌道に乗せて戦国という時代の隅々まで普及させていったことです。

早くも、弘治元年(1555)には、甲斐の武田信玄が川中島の合戦のために鉄砲を調達したという記録があります。

キリスト教の光と影を伝えた宣教師「フランシスコ・ザビエル」

イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、ポルトガル王ジョアン三世の依頼により、ポルトガル領東インド地方(インド、南アジア、東南アジア一帯)にやってきたのは、天文十年(1541)五月のことでした。

布教活動に明け暮れていたある日、ザビエルはマラッカ(マレーシア)でヤジロウという日本人に会うことになります。

ヤジロウは、日本で人を殺して逮捕を逃れるために海外へ逃亡し、そのときは停泊していたポルトガル船に逃げ込んでいました。

サビエルは、この時初めて日本と日本人に関して様々な知識を得ます。

そして、東インド地方にきて出会った人々と、日本人は全く違うことに気づきます。

また、ヤジロウは礼儀正しく理知的で、学ぶことが好きでした。

日本からマラッカへ戻ってきた商人たちも、日本人はたいへん理性的であり他の国々より遥かにキリスト教を受け入れる可能性が高いと、口々にサビエルに語ったとのこと。

ザビエルは、日本に行くことは天命だと感じて、コメス・デ・トルレス神父、ファン・フェルナンデス修道士および二人の使用人、ヤジロウなどを伴って、天文十八年(1549)八月十五日、ヤジロウの故郷・鹿児島にやってきたのでした。

一行は、とりあえずヤジロウの家に滞在し、村人たちは死んだとばかり思っていたヤジロウを迎え入れます。

ヤジロウは既に、インドのゴアで洗礼を受けていました。

想像もつかない異国のみやげ話もさることながら、村人達の関心は初めて見る異国人に集中します。

ザビエル達は早速、神の教えを説いた。

「永遠なるもの」は何なのかを語り、イエズス会のモットーである「より大いなる主の栄光の為に」布教に努めます。

ザビエルの噂は、領主・島津貴久の耳にも入り、まずヤジロウが当時の島津家の本城・一宇治城(鹿児島県日置市)にいた貴久に招かれます。

ヤジロウは、幼な子イエスを抱いたマリア像の絵を持参していたが、貴久は深い感動を示し、その絵の前にひざまずいて家臣達にもひざまずくように命じます。

貴久から住む家も与えられたザビエルは、日本人たちとの出会いに深い喜びを感じます。

そのころ、仏僧は墜落していて、庶民がキリスト教に傾いてゆくのに時間はかかりませんでした。

貿易を目的とする島津の保護という追い風を受けて、キリスト教は順調に広まってゆくかに思われました。

しかし、危機感を抱いた僧侶達はそれを許さず、日一日と仏教界からの反発が強まり、貴久もキリスト教を禁じざるを得なくなります。

結局、鹿児島滞在約一年にしてザビエルは、かねてから考えていた京都へ行くことにします。

ザビエル一行は、貴久から貸し与えられた船で、平戸に渡たります。

「そこの領主(松浦隆信)は、私たちを大いに歓迎した。そこに居ることに暫くにして、住民の数百名が信者になった。」

隆信は、ポルトガルとの貿易を重要視していたから、ただちに布教を許可したのです。

一行のうちからトルレス神父が平戸に留まって、さらに布教活動を展開することになり、ザビエルはフェルナンデスと共に山口に向かいます。

道筋や街頭で説教をするザビエルのもとに、人々は集まりました。

ザビエル達に宿を提供した内田とその妻は、山口で最初のクリスチャンになります。

大内義隆の家臣・内藤興盛は熱心な仏教徒であったが、ザビエル達を屋敷によく招き、興盛の尽力でザビエルは義隆に会うことができます。

義隆はザビエルに様々な質問をし、それに対してザビエルは一時間以上かけて自分たちが日本語でつくった教理書をたどたどしく読み上げて説明するという涙ぐましい努力をします。

その後、ザビエルは京都に滞在したが、貢ぎ物を用意していなかったこともあって、天皇(後奈良天皇)への謁見は許されませんでした。

比叡山の僧侶達とも対話をしたいと考えていたが実現できず、荒れ果てた都の街頭での説教も無理ということで、むなしく山口に戻ります。

京都にいた日数は、僅か十一日間でした。

一旦、平戸に戻ったザビエルは衣服を整え、インド総督とローマ法王の使節として贈り物を携えて、再び山口の大内義隆に謁見します。

贈り物の中の「自鳴鐘」(時計)という珍品に気をよくしたのか、義隆は領主名で布教許可の布命を出します。

その甲斐あって、山口における成果は日ごとにあがっていきました。

ザビエルは、ようやく日本の布教に明るい光を見出すことができます。

天文二十年(1551)十一月十五日、来日して二年三か月程で、ザビエルは日本を去ります。

自分が蒔いた種が、確かに日本に根を降ろしつつあると信じて日本の地を後にしたのです。

日本に滞在するイエズス会の伝道者は五十五名、信徒十万を数えるに至りました。

ザビエル来日から、二十余年後のことでした。

ザビエルが日本に滞在した時間はそう長くはなかったが、その影響は極めて大きいものでした。

それは鉄砲と共に、日本の近代史への扉を開いたのです。

とはいえ、キリスト教は天正十五年(1587)には禁じられることになります。

ザビエルの死後僅か三十五年のことで、それはイエズス会の宣教師達の目的が布教だけでなかったからなのです。

ザビエルの時代は、造船技術と航海術の飛躍的な進歩によって、ヨーロッパ各国が競って新航路を開き、交易による莫大な利益と植民地の拡大を争う、大航海時代の真っ只中にありました。

イエズス会といえばイタリア語のスラングで「ペテン師」という意味があるほどで、彼らは片手に聖書を持ってはいたが、残る片手には植民地政策を持っていました。

それが時代の風潮であったから、イエズス会の罪とはいえないことだが、そのためにキリシタン禁制は日を追って強化され、信者に対する過酷な迫害と処刑が始まったのでした。

神と女の間で揺れたキリシタン大名「大友 宗麟(おおとも そうりん)」

北九州六か国を制し、自らは宗麟と号して一時は仏教に帰依していた武将・大友宗麟は、キリシタン大名としてフランシスコを名乗ります。

宗麟二十二歳のとき、フランシスコ・ザビエルと出会います。

当時、山口にいたザビエルを領国豊後・府内(大分市)に招いて、最高の儀礼をもって厚遇しています。

宗麟はザビエルの話に感動して、彼の布教活動を支援しました。

豊後領内の布教を許し、教会を建て、ハンセン病患者を収容する病院まで建てます。

他のキリシタン大名の多くがそうであったように、宗麟もまた、信仰一途の気持ちだけで彼らに近づいたわけではありませんでした。

だが、宗麟の保護のもとでキリスト教は次第に普及し、文化が発展します。

同時に貿易が栄え、武器、弾薬が大量にもたらされ、その製法まで知ることができました。

宗麟が九州を治めることができたのは、鉄砲や石火矢(大砲)などの新兵器を獲得したことによるものといえます。

宗麟は、大友家の当主になるまで、難しい事件を乗り越えています。

父・義鑑が、長男である宗麟を差し置いて寵愛していた側室の子・塩市丸を、後継者に立てると宣言したのです。

その後、長子相続の望む重臣の一部が夜陰に乗じて忍び込み、側室と塩市丸、その妹を斬殺しします。

さらに、義鑑まで殺しました。

宗麟には、好色な戦国武将の顔もありました。

重臣・立花道雪は、宗麟に何度か苦言を呈そうとしたが、話ができませんでした。

宗麟は、寵臣だけを周りに置いたからです。

そこで、道雪は策を練ります。

京都から踊り子の一行を呼んで、「道雪の屋敷には京から踊り子が来ているそうな」とわざと噂を流させました。

その噂を聞きつけた宗麟は「踊り子を連れて参れ」と命じます。

道雪は、踊り子に踊らさせてその後で諫言します。

「日夜遊興にふけってばかりいては国は乱れ、やがては滅びると。」

しかし、宗麟の好色癖がまたも墓穴を掘ってしまいます。

天文二十二年(1553)家臣の一万田親実の美人で通っている妻を、無理やり奪って妾にした。

そのために親実に無実の罪をなすりつけることまでします。

宗麟の重臣に、この親実の兄・高橋鑑種がいました。

無実の弟が殺され、その妻が奪われた鑑種は、宗麟に反旗を翻します。

この鎮圧には、三年間も日々を費やし、好色が招いたこの事件が大友氏滅亡を確実に早めました。

まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。 この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。 ...

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