【力こそが正義】実力者がのし上がる「下克上」が盛んだった「戦国時代」の人物4選 ~金地院崇伝、茶屋四郎次郎、細川忠興、後水尾天皇~

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力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

「天魔外道」と呼ばれた政僧「金地院 崇伝(こんちいん すうでん)」

幕府体制の確立を急ぐ老齢の徳川家康にとって、外交と内政の両面で暗躍した禅僧・金地院崇伝は、実に頼りになる存在でした。

伴天連追放令、禁中並公家諸法度、武家諸法度など、徳川幕府三百年の根幹をなす法令を遺漏なく起草した手並みは見事なもので、まさに家康の懐刀といえました。

特に、豊臣家が滅ぶ大坂の役のきっかけとなった慶長十九年(1614)の方広寺・大仏殿鐘銘事件で、崇伝の果たした役割は大きいものでした。

家康は、多くの浪人を招集し始めた大坂方の働きを睨みつつ、討伐の口実を狙っていましたが、そこに降って湧いたのが、地震で倒壊した方広寺大仏の開眼供養でした。

大仏殿の鐘に記された「国家安康」「君臣豊楽」の文字には、家康を呪い豊臣家の繁栄を願う策略が隠されていると、難癖をつけて挑発し戦に誘い込んだわけですが、元々、豊臣秀頼に寺社再建を勧めたのは家康でした。

大坂方は、まんまと家康の術中にはまったことになります。

この言いがかりを考えだしたのが、儒学者・林羅山と京都五山の碩学(せきがく)たちであり、その中心人物が崇伝でした。

三十七歳の若さで、臨済宗の最高位である大覚寺派本山・南禅寺二百七十世住職に登りつめ、家康に抜擢された程の崇伝。

論理的な頭脳に卓越した知識と弁舌を具え、並外れた駆け引きの老獪(ろうかい)さで禅僧から政僧へと変身した崇伝にとって、豊臣方の武将など赤児の手をひねるようなものだったでしょう。

豊臣氏滅亡の後、次なる権力剥奪のターゲットを寺社と朝廷に定めた崇伝は、紫衣(しえ)法度と宗派別の法度である五山十刹法度を起草。

これによって、寺社の権威の拡大は抑えられ、ひいては僧位などの授与者である朝廷の権威と財源も削がれることになります。

一見すると、禅僧である崇伝にとっても、手足をもがれかねない法度ですが、崇伝個人の発言力はさらに強まっていきました。

武家時代の到来を察知して権力者におもねる一方、自らの権力の拡大を謀る狡猾な狙いが伺えます。

寛永四年(1627)後水尾天皇が幕府に抗議して退位する紫衣事件が起こり、朝廷と幕府の力関係は逆転。

崇伝の暗躍ぶりに、人々は「黒衣の宰相」とか「大欲山気根院僭上寺悪国師」などと呼びました。

沢庵に至っては、崇伝を「天魔外道」と評しました。

情報戦に生きた武闘派豪商「茶屋 四郎次郎(ちゃや しろうじろう)」

茶屋四郎次郎は商人ではあったが、自ら戦闘にも参加し、元亀三年(1572)の三方ヶ原の合戦以後、五十三回もの戦闘に参加。

しかし、何といっても最大の功績は「伊賀越え」でしょう。

天正十年(1582)六月二日、本能寺の変が起きます。

この時、四郎次郎は、大名を相手に軍需用品を納入する京都有数の豪商の地位にありました。

家康は、五月二十一日から二十八日まで、京都の四郎次郎の新町の私邸を宿舎としています。

六月二日、家康は堺を出発し、京都へ向かいました。

当日午の刻、本多平八郎忠勝を先頭とする家康一行が、河内・牧方あたりに近づいた時のこと、一人先行していた平八郎が、京都から必死の形相で馬を駆ける四郎次郎に出くわします。

四郎次郎は「明智光秀謀反」を知らせようとしたのでした。

これは、家康にとって一大事でした。

酒井忠勝ら家臣達は、京都に入って知恩院で信長の恩に報いる為に追腹を切ろうとした家康を諫め、何としても三河に戻って信長公の仇を討つべきと説得します。

四郎次郎は、野武士や農民が早くも決起している中を通ることは危険であると述べ「伊賀越え」を勧めます。

しかし、この「伊賀越え」も、難コースでした。

明智勢が占領した京都からなるべく離れて、河内の尊円寺村から山城へ越え、木津川を渡り、伊賀へ入り、伊勢を横断し、白子の港から伊勢湾を舟で渡って三河へ帰る、という道順でした。

四郎次郎は、金、銀子約八十枚を用意。

家康一行より常に四、五町先を歩いて、宿場に差し掛かるたびに「徳川の殿様より下されたもの」と四、五枚を顔役に手渡しました。

この手配で、一行は無事、六月五日に岡崎城に到着することができました。

やがて、徳川の天下となった時、四郎次郎は活躍の場を失っていきます。

安定した時代が到来し、偽装工作や情報収集は特に必要では無くなっていったからです。

それに伴い、四郎次郎は海外に目を向けます。

海外貿易です。

文禄元年(1592)秀吉が初めて、東南アジアに向かう貿易船に朱印状を出します。

御朱印船九艘のうち、一艘は四郎次郎の持船でした。

行き先は、現在のインドシナ、マレーシア、フィリピン、そしてベトナムなどでした。

これらの海外貿易は、茶屋氏の豪富の一因となります。

以後、鎖国までの三十余年間に、三百数十艘の御朱印船が往復しましたが、家康の政権後も茶屋船は常に最優先に扱われ、二代、三代の四郎次郎にも大きな利益をもたらしました。

大名に出世した光秀の女婿「細川 忠興(ほそかわ ただおき)」

細川忠興は、細川幽斎(藤孝)の嫡男として京都に生まれます。

天正五年(1577)十月には、父・幽斎と共に、松永弾圧の属城であった片岡城を攻めました。

忠興は真っ先に突進し、奮戦して首級を挙げます。

翌年、忠興は妻をめとります。

後に、細川ガラシャと呼ばれる明智光秀の娘・たまでした。

たまは、中々の美人であったとのこと。

しかし、この結婚が思わぬ事態を招くことになります。

天正十年(1582)六月、たまの父・明智光秀が、織田信長を本能寺で討ち、細川家に協力してほしいと書面を送ってきたのです。

父・幽斎は信長への弔意を表す為に、忠興共々、髻(もとどり)を切り、たまを丹後半島の三戸野(味土野)山中に幽閉。

この様に、細川家は光秀との関係を断ち切っていることを必死にアピールし、秀吉の納得を得てからたまの幽閉を解きます。

忠興が、秀吉政権下で着々と足場を固めつつある時、またしても細川家は不運に見舞われます。

文禄四年(1595)関白秀次の失脚事件が起こったのです。

忠興は、秀次から多額の借金をしていた為、当然のことながら忠興も秀次の一味ではないかと疑われました。

忠興は閉門を命じられます。

それだけでなく、忠興切腹の話まで、まことしやかに伝えられてくるようになります。

忠興は弁明に努めます。

これに対し、秀吉は忠興に人質を出すことや借金を返済することを命じて、それを潔白の証明としました。

忠興は、やっとのことで家康から金を借り、間に合わせることができました。

この借金騒動が、忠興と家康を結びつけます。

秀吉亡き後は、その力を見定めて、忠興は家康に急速に接近していきます。

慶長五年(1600)関ケ原の戦いでは、忠興はその直前の会津討伐軍に参加。

石田三成が、挙兵して大坂にいる東軍の家族を人質とし、大坂城に入れようとします。

たまことガラシャの屋敷は包囲されます。

ガラシャは夫の重荷になることを恐れ、家臣に長刀で胸を突かせて最期を遂げ、屋敷を爆発炎上させました。

キリシタンであったガラシャは、どうしても自害することができなかったからです。

合戦後、忠興は戦功を認められ、豊前三十九万石の大名に取り立てられました。

元和六年(1620)家督を忠利に譲った後は、悠々と茶の湯などを楽しんだそうです。

天皇が到達した境地とは「後水尾 天皇(ごみずのお てんのう)」

徳川幕府は、朝廷が危険な存在であることを知っていました。

それは、誰の冠にもなり得る様な可能性があったからです。

そこで、案出されたのが「禁中並公家諸法度十七ヶ条」でした。

徳川将軍は朝廷の官ではなく、日本の政権担当者であると宣言したということです。

後水尾天皇は、当然反撥(はんぱつ)しますが、その反撥をさらに烈しいものにする事件が続きます。

まず、元和六年(1620)の秀忠の末娘・和子(八歳)の入内(じゅだい)です。

天皇は、譲位を決意したほど激怒。

次に「紫衣事件」です。

紫衣勅許(ちょっきょ)は、先の「法度」に抵触することですが、これを無視して十数名の高僧に紫衣着用の勅許を与えました。

それは、朝廷にとって大きな財源だったからです。

これを知った幕府は、紫衣・上人号を無効とします。

家光の乳母であった斎藤氏(この参内によって春日局となる)が、無位無官で朝廷に参内(さんだい)したことも、天皇の気持ちを傷つけました。

他にも、幕府は天皇を締めつけ、遂に寛永六年(1629)十一月、天皇は春日局参内の直後に譲位し、和子との間に生まれた興子内親王(明正天皇)に践祚(せんそ)させます。

平安以来、久しぶりに女帝を誕生させたわけですが、これは幕府に対する痛烈な皮肉でもありました。

何故なら、和子の生んだ女を天皇に据えたことを、幕府の干渉の苛酷さとして世間に印象づけたからであり、女帝は結婚しないから、徳川の血筋を天皇家から断つことができるからです。

このしたたかさに、幕府も天皇が侮り難い人物であることを認識したに相違ない。

後水尾天皇は、慶安四年(1651)五十六歳で法体となり残る人生を、修学院離宮の造営に賭けました。

「後水尾天皇の場合、最も強く求めていたものは庭園というものを上から見下ろす視点の置き場所であり、一番欲しかったものは山上の茶屋であった。(中略)きっとこの高所から辺りの風景を展望する視点のあり方は(中略)古代の天皇が行った国見のことなどがよみがえり、イメージとしては、そういうすめらみことの行為ともいうべきものとそれは重なっていた。」(「修学院離宮」田中日佐夫著)

これは、晩年に天皇が到達した、ひとつの高い境地だったと思われます。

天皇でなければ創造できない芸術・文化の頂点を極めたということであり、世俗的な政治と対極的な場所に位置する視点だと考えるべきでしょう。

まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。 この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。 今回は...

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