戦国時代4選【斎藤道三/斎藤龍興/太原雪斎/今川義元】 ~実力者がのし上がる「下克上」が盛んだった戦国時代最強は誰だ!~

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力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

「まむし」と呼ばれた男「斎藤 道三(さいとう どうさん)」

道三が生まれたのは、明応三年(1494)幼くして京都の妙覚寺に入れられて、法蓮坊と称しました。

その後、稲葉山城主・永井長弘に見込まれて家臣に取り立てられた道三は、美濃の守護・土岐氏に取り入ることにも成功します。

このころ土岐氏は、兄の盛頼と弟の頼芸が相続争いをしていましたが、道三は頼芸をそそのかして兄の盛頼を攻めさせ、頼芸を守護につかせました。

その一方で、道三は永井長弘にわざと遊興に耽るように仕向け「長弘に謀反心あり」と頼芸に讒言して、長弘夫婦を殺害してしまいます。

大恩人であるはずの長弘を殺害した後は、由緒ある斎藤家の養子となって、小さな砦に過ぎなかった稲葉山城を堅固な城につくり直しました。

さらに、虎視眈々と機会を狙っていた道三は、天文十一年(1542)口実をもうけて頼芸が拠る大桑城に攻め入ります。

飼い犬に手をかまれた形の頼芸は、尾張に逃れて織田信秀に援助を求めます。

頼芸を追い出した道三は、ついに美濃の国守にまで登りつめます。

道三はしばらくの間、頼芸が頼みとする信秀と緊張状態を続けることとなります。

しかし、信秀との対立に見切りをつけることが得策と考えた道三は、その息子・信長に娘・帰蝶(濃姫)を嫁がせることによって和睦します。

ところが、思いもかけない落とし穴がありました。

それは、息子の義龍でした。

義龍は、道三が頼芸からもらい受けた絶世の美女・深芳野を母として生まれました。

しかし、深芳野を妻にしてから月足らずで生まれた義龍に、道三はわが子だという確信が持てません。

義龍自身も、父への不信感を募らせ、「実の父は頼芸で、道三は実父の仇」だと思うようになっていきます。

やがて、道三が義龍を廃して次男の孫四郎に家督を譲ろうとする噂が広まると、義龍はいち早く先手を打ちます。

自分が病気だと称し、二人の弟を呼び寄せて殺してしまったのです。

道三は激怒して、ついに親子の戦争が始まります。

結果は、圧倒的兵力の義龍の圧勝に終わりました。

道三は決戦の前夜、末子の勘九郎にあてて手紙を書いています。

そこには「美濃国は婿の信長に任せること、勘九郎は代々の子孫の繁栄のために出家せよ」という遺言がしたためられていました。

そして最後は「本当に命を捨ててしまってもこの世の他に来世などないはずなのに、一体どこかに人間の最後の棲家はあるものだろうか」という感慨で結ばれていました。

古い因習から抜けられなかった悲しい三代目「斎藤 龍興(さいとう たつおき)」

道三を殺して斎藤家の二代目となった義龍は、名を母方の一色式部大輔と改め、出家して范河と名乗ります(号・玄龍)。

義龍は「身より出だせる罪なりと得道をこそしたりけり」(「信長公記」)と、道三殺害を「不孝重罪恥辱」だと感じていました。

偽(義?)父ではあるが育ての親であり、その父を殺したことにおののいたと。

出家は政治的配慮もあったが、おののく神経は持っていたのです。

義龍は「耄者」などではなく、有能な支配者として美濃に君臨したともいえますが、短命でした。

道三を殺して五年後の永禄四年(1561)五月十一日、三十五歳で脳出血によって急死します。

そして、美濃は義龍の嗣子・龍興が、十四歳で三代目を受け継ぎます。

このころ、信長は着々と天下布武の道を歩んでいました。

桶狭間で今川義元に大勝して岡崎の松平元康(家康)と同盟、上洛して足利将軍を抱き込むと鉄砲を大量に買いつけています。

義龍の死を知ると、電撃的な速度で兵五千を率いて西美濃に出撃、竹中半兵衛に押し返されると、さらに七月二十一日に、七千を率いて再度美濃に侵入して稲葉山城下・井ノ口(岐阜)まで迫ります。

しかしこの時は、崩れてゆく龍興軍を深追いしていくと不意に背後から攻められ、前方の敵もみるみる陣を立て直して挟撃され、苦戦に追い込まれて辛うじて撤退します。

ところが、歴史はここに今一人、不思議な人物をデビューさせます。

それは、木下藤吉郎(豊臣秀吉の若い頃の名前)でした。

藤吉郎は、長良川西岸に墨俣城を築き、これを橋頭堡にして稀代の軍師・竹中半兵衛を口説きにかかります。

半兵衛は、龍興に不満を抱き、関ケ原の南宮山に近い栗原村に隠棲していましたが、度重なる藤吉郎の誠実で念入りな口説きに落ちます。

藤吉郎は、半兵衛を人的橋頭堡にして、やはり龍興に不満を持つ美濃三人衆(安藤守就=北方城、稲葉一鉄=曾我城、氏家卜全=大垣城)に内応の密約を取りつけます。

要するに、三代目の龍興は若すぎたのでした。

海千山千の宿老の心を掴みきれなかったのは、無理もないことでした。

信長は容赦しませんでした。

永禄十年(1567)七月三十日、千三百の兵をもって稲葉山城を抜きにかかります。

夜間に兵の半数を退かせて、側面から背後に迂回、龍興はこれを当方優勢と誤認して進撃したが、迂回隊に紛れ込んだ信長は、美濃三人衆の旗をおしたてて背後から襲い掛かかります。

さらに、井ノ口の町に火を放って、包囲十数日で降伏を要求しました。

信長、藤吉郎、半兵衛。

龍興は運がありませんでした。

戦国期が生んだ三人の天才に束になってかかられては、龍興でなくても城も一国も守り切れなかったことでしょう。

龍興は、信長に城兵の命を保証させ、木曽川を舟で下って伊勢長島経由で京、堺へと落ちのびます。

信長は、周の文王が岐山によって天下をおさめた故事に倣って、稲葉山城とその城下井ノ口を「岐阜」と改めます。

ここに、斎藤三代は実質的には消滅したのでした。

その後、龍興は長島の一向一揆に加わったり、本圀寺の変に与力して働いたりします。

本圀寺の変とは、永禄十二年(1569)一月五日、三好三人衆(三好長逸、三好政康、石成友通)が京都・本圀寺にあった将軍・義昭を堺を後ろ盾にして襲撃した事件です。

龍興は「義糺」と改名して包囲軍に加わっていましたが、三好義継、池田勝政、伊丹親興らが救援にかけつけて結局は敗走します。

さらに龍興は、一色刑部大輔義輔と改名して、越前の朝倉義景を頼って食客となったが、敦賀で信長と戦って、二十六歳で敗死します。

天正元年(1573)八月十三日のことであり、斎藤家は道三から三代二十余年間という短命な「王家」に終わりました。

龍興は、育ちから考えれば当然のことですが、旧守護・将軍体制、門閥体制に躰をあずけ、時代の新しい空気に背を向けすぎたのです。

というより、新しい空気を受容する柔軟性に欠け、基本的な発想をオーソドックスで古い因習の枠内から出して、羽ばたかせることができなっかたのです。

ですが、凡庸な人物であったわけではありません。

堺や三好三人衆、長島一揆勢や朝倉家もそれほど甘くなかったはずです。

ひとかどの人物であったからこそ、龍興を受け容れたと判断すべきです。

龍興は、愚鈍で吃音者であったとも言われているが、巷説に過ぎません。

ルイス・フロイスは「日本史」のなかで、京にあったころの龍興を「非常に有能で思慮深い」(松田毅一訳・以下同じ)と評価しています。

続いて「彼はキリシタンになることを望み、世界の創造、その他のことにつき、聴聞したことを逐一書き留め、教会に戻って来ると、聴いたことをいとも明白、かつ流暢に反復したので、(人々は)驚嘆した」と記しています。

とても、愚鈍な吃音者であったとは思われない証言です。

また、龍興は、ガスパル・ヴィレラ司祭に対して次のような質問しています。

「人間がデウスによってあらゆる被造物の首長とされているのならば、なぜかくも多くの不幸が(人間界に)満ち(ているのか)、(また)被造物が、なぜ(人間の)意志に(容易に)従わぬのか。善良に生活する者が、現世でなんらの報いも受けぬのはなぜなのか」と。

龍興が発した「なぜ」は、キリスト教では永遠に解決できない「なぜ」でした。

この悲痛な問いを、次々と発し続ける若者の眼にたたえられている苦悩と哀しみの光を、ヴィレラははっきりと見てとったはずです。

今川家を支えた軍事・外交の天才「太原 雪斎(たいげん せっさい)」

今川義元の「執権」あるいは「軍師」といわれました。

諱は崇孚、字を太原と称します。

軍師=参謀としての雪斎には、天文十五年(1546)から開始された三河侵略のプロジェクトが本格的な出発でした。

天文十七年には、織田信秀(信長の父)と戦い、東三河を完全に抑え込んでしまいます。

そして、今川と織田は一応和睦。

これが「笠寺の会盟」であり、これによって松平広忠の子・竹千代(のちの家康)が人質として今川家に預けられることになります。

一方、東の隣国相模との国境では、小田原の北条氏康との対立が続いていました。

今川は、武田信玄と手を組んでこれにあたり、氏康はそれまで所有していた富士川以東の駿河を確保できなくなっていました。

すでに、信玄の姉が義元のもとへ嫁いでいたから、今川・武田の間は親密でした。

天文十九年(1550)に義元夫人が亡くなると、この親密な関係が破棄される可能性が出てきたため、その維持のため天文二十一年(1552)十一月、義元の長女と信玄の嫡男・義信を結びつけて甲駿同盟が形づくられます。

この時期、氏康は関東・古賀公方足利氏、上杉謙信を敵にして閉塞状況下にありました。

こうした難局を打開するために、氏康は信玄の娘と自分の嫡男・氏政を結婚させて、甲相同盟を結びます。

甲駿同盟と甲相同盟が別々に結ばれていたわけですが、どちらも武田信玄がキャスティング・ボードを握る形になっていました。

雪斎は、これでは力の均衡が崩れて支配関係が生じると考え、氏康の娘を義元の嫡男・氏真に嫁がせればよいと計算します。

天文二十三年(1554)七月にこの婚儀が整い、三国同盟が締結されます。

雪斎の書いたこのシナリオは「善得寺の会盟」と呼ばれますが、実際は三つ巴の政略結婚であったのです。

このように、雪斎は優れた外交官だったばかりではありません。

義元が、今川家の黄金時代を現出したような印象を与えるが、政治、文化、経済、どれをとっても雪斎が大きく関与していて、義元自身の太守としての功績はあまりなかったように思われます。

また、雪斎は僧侶としても大きな業績を残しています。

臨済寺を創立し、善得寺と清見寺を中興し、駿河・今林寺、承元寺、葉梨・長慶寺、庵原・一乗寺、遠州・定光寺、三河・実相寺、太平寺などを興して妙心寺派の普及に務めました。

不吉な予言を聞いて惨敗した「海道一の弓取り」「今川 義元(いまがわ よしもと)」

弘治元年(1555)今川義元が頼りきっていた雪斎が死にます。

これは、義元にとって大打撃でした。

義元が織田信長に敗れたのは、この雪斎がいなかった為だとも言われています。

義元は、歴史上では敗者だから、武将としての評価は決して高くないのですが、見方を転ずれば、あまりに雪斎が偉大でありすぎたとはいえないでしょうか。

雪斎は、確かに今川家の興隆に貢献し、領土拡張に優秀な能力を発揮しました。

しかし、義元自身がお歯黒をしていたといわれるように、今川家には京風文化が蔓延し、武士本来の実質剛健さが失われていたのも事実です。

雪斎亡き後の今川家の政治は混乱し、統制がとれない状態が続きました。

この悪い状態から一挙に抜け出そうと、義元が画策したのが上洛の計画でした。

かくして義元は、雪斎の死から五年後の永禄三年(1560)駿河・遠江・三河の三国から集めた二万五千の兵を率いて駿府を出発。

この上洛が、不吉なものであったことを象徴するエピソードがあります。

上洛直前のある晩、義元が駿府の館で寝ていると、兄の良真が夢枕に立っていました。

義元が家督を継いだ際に、滅ぼされた良真です。

良真は「上洛は不吉であるから、思いとどまるように」と義元を説得します。

義元は怒って亡霊に斬りつけたが、その後も良真は幾度も夢に現れます。

良真は「私はお前に滅ぼされたことを恨んでいるのではない。今川家のことを案じるから来ているのだ」と言ったといいます。

しかし、義元は良真の忠告に耳を貸すことなく、上洛決行の途につきます。

果たして、義元の率いる軍勢の僅か十分の一ともいわれる織田信長軍に、桶狭間(愛知県豊明市)で休憩中に突然の奇襲をかけられて、義元はあっけなく首をとられてしまうのでした。

義元の無念は、死後も続きます。

何万という大軍が、殆ど信長を攻撃もせずに、そのまま駿府へ逃げ帰ってしまったのです。

おまけに、嫡子の氏真は、蹴鞠が得意という公家趣味の男で、父親の弔い合戦など露にも考えつかなかったのです。

というより、ダメ男を演じ続けて生き延びたと考えるべきでしょうか。

しかし、一人だけ例外がいました。

鳴海城を守っていた岡部真幸です。

真幸は徹底抗戦して、織田軍に義元の遺体引き渡しを執拗に求めます。

その君主思いに感じ入った信長は、真幸に義元の首を与えたといいます。

その後も、真幸は刈谷城を攻めて、城に火をつけて駿府に帰ったという。

まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。 この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。 ...

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