力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。
この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。
今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。
賢明公平に生きた南部藩の祖「南部 信直(なんぶ のぶなお)」
南部信直は南部家の宗家・政康の孫であり、父・石川高信の側室の子として、天文十五年(1546)岩手郡一方井に生まれます。
南部家は、甲斐源氏の流れをくむ陸奥の名族。
南部家二十四代の南部晴政には子がなく、田子九郎信直は妻が晴政の長女であったところから請われて嗣子となります。
ところがその後、予期せぬことが起こりました。
晴政に、実子・鶴千代(晴継)が誕生したのです。
信直は家臣が分裂することを恐れ、自ら田子城に退き、晴継が二十五代目を継ぎました。
以後、家督相続の争いが続くことになります。
天正十五年(1587)一月二十四日、当主の晴政が死ぬと、その後を追うように晴継も死んでしまいます。
これは、九戸政実が暗殺を謀ったという噂も流れました。
重臣達は三派に分かれ、田子九郎信直と九戸政実、八戸政栄が家督を争いました。
そして、一門の実力者北信愛が、実力行使で信直を宗家に押し上げます。
信直は、ただちに家臣を登城させ、命に従わぬものは処罰すると布告。
信直は賢明に、そして家臣に公平な二十六代になりました。
やがて、信直は鷹商人の清茂と出会います。
清茂は、鷹を通じて秀吉の寵愛を得ていました。
そこで、信直は清茂の力を借り、前田利家を介して本領安堵の朱印状を受けることができます。
やがて、信直は清茂によって、秀吉の小田原城攻めを知ることになります。
「北条氏直らは程なく滅ぼされ、秀吉の大軍が大挙して奥州に下向すること間違いない。」(「奥羽永慶軍記」)
一刻も早く秀吉の元へ行かねばならぬと思いながらも、今留守をすると九戸一族が反乱を起こす恐れがありました。
信直は清茂を使者として送り、秀吉への忠誠を誓います。
天正十九年(1591)秀吉の旗下となった信直は、依然として九戸政実との反目が続いていました。
政実が大浦為信、伊達政宗らと手を結んだ為、信直はこれを謀反と判断し、同年九戸城を攻めます。
一進一退の攻防のなか、三月に一時攻められたものの秀吉の援軍、徳川家康、秀吉の甥・秀次、浅野長政らによって、遂に政実を滅亡させます。
晩年の信直は、盛岡城の築城と町造りに情熱を注ぎ、南部氏の領地は、北は現在の青森県下北半島から南は岩手県の北上中央部まで広がっていました。
高野山へ追放された「殺生関白」「豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ)」
天正十七年(1589)五月二十七日、豊臣秀吉は五十三歳にして、待ちに待った初めての子をもうけます。
側室・淀君との間に生まれた鶴松です。
しかし、生来病弱な鶴松は、三歳で早死にしてしまいます。
この鶴松の死が、一人の男の運命を大きく変えてしまいました。
豊臣秀次は、秀吉の姉の子、つまり秀次は秀吉の血を分けた甥にあたります。
鶴松の死により、秀次は豊臣家の養嗣子となり、同年の十二月には関白職を譲られます。
一見安泰と思われた秀次ですが、その後、足下を大きく揺する事態が起きました。
淀君が第二子お拾(秀頼)を生んだのです。
秀吉、五十七歳の子でした。
秀吉の心には、たちまちのうちに、秀次に相続権を与えてしまったことへの後悔が生じました。
秀次は聚楽第での生活を堪能していましたが、関白となってからの二年余は、残虐な行為が目につきました。
秀頼の誕生が、より一層そんな秀次を追い詰めることになります。
正親町天皇が崩御されたというのに、秀次は鹿狩りをするといい出します。
或いは、殺生禁断の聖地・比叡山に登って鹿狩りをし、その獲物を根本中堂で調理。
さらには、殺した鹿の屍体を、僧侶の食用の塩や酢の中に投げ込んだといいます。
こうした状況下で、秀吉は秀次に提案します。
「日本国を五つに割り、そのうちの四つを秀次に、一つは秀頼に。」
というものでした。
また、秀次の娘を秀頼に嫁がせようとしました。
しかし、いずれも秀次の心を晴らすものではなく、秀吉の心変わりに対する不安だけが胸のなかで広がっていきました。
鉄砲の稽古だと称し、田畑に働く農夫を的にして打ち殺す。
盲人を捕まえて切り刻む。
夜な夜な京の町に出て辻斬りを繰り返し、「殺生関白」と呼ばれるようになります。
中でも、秀吉の怒りをかったのが、朝廷への多額の献金でした。
秀吉は、これを秀次の謀反の準備と受け取ります。
文禄四年(1595)七月、秀吉は遂に秀次を高野山へ追放。
秀次は剃髪して謹慎しましたが、時すでに遅し。
秀吉は、福島正則らを高野山に行かせ、切腹の命令を伝えました。
七月十五日、十畳ほどの部屋で秀次は切腹。
その後の秀次の身内への処置は、徹底したものでした。
八月二日、洛中引き回しの後、秀次の首をさらした三条河原で、秀次の子や二十人を超える妻妾、幼児までもが惨殺。
それは、あたかも根の部分まで断ち切るような厳しい処分でした。
釜ゆでにされた天下の大泥棒「石川 五右衛門(いしかわ ごえもん)」
石川五右衛門は、秀吉時代の大盗人として名高いが、所説あってはっきりした出身地は定かではありません。
河内、伊賀などの説があれば、遠江・浜松の出身で真田八郎と称したとも伝えられてます。
河内の石川郡・山内古底という医師によって、石川五右衛門と改めたといいます。
三十人力で、十六歳のとき主家の蔵を破り、番人三人を斬り倒します。
さらに、黄金造りの太刀を奪い、諸国を放浪し、次々と盗みを働きました。
文禄三年(1594)秀吉の命により、前田玄以が同類二十余名と共に逮捕し、京都・三条河原で釜ゆでの刑に処されました。
さらに、彼の母及び同類も相次いで処刑。
「八月二十四日天晴、盗人スリ十人、又一人者釜にて煎らる、同類十九人八リ付に懸る、三条橋間の河原にて成敗なり、貴賤群云々」(「言経卿記」)とあります。
後世、石川五右衛門の話は、浄瑠璃や歌舞伎の脚本に脚色され、義賊、大盗賊の代名詞となりました。
「言経卿記」「豊臣秀吉譜」やアビラ・ヒロン「日本王国記」などによれば、事実はともあれ五右衛門は凶悪な盗賊ということになります。
浄瑠璃や歌舞伎では「石川五右衛門」として、近松の「傾城吉岡染」「釜淵双級巴」「楼門五三桐」など「五右衛門物」と通称される作品群が形成されていきました。
とにかく不明が点が多い五右衛門ですが、こんなエピソードが残っています。
あるとき、五右衛門は秀吉の寝所に忍び込みました。
ところが、床の間に置かれていた千鳥の香炉が鳴き出し、その音で目を覚ました秀吉が声を上げました。
結果、宿直の武士が駆けつけ、五右衛門は捕まったといいます。
この青磁の焼きものは脚が三本あった為、少しの振動で揺れてその音を「鳴く」といったのかもしれません。
それにしても、五右衛門は何のために秀吉の寝所に入ったのでしょうか。
天下の大盗賊の面目にかけて、天下の秀吉のところへ忍び込む、といったところでしょうか。
それとも、庶民の反権力的な気持ちが託されたドラマなのか。
いずれにしても「天下の大ドロボウ」だったようです。
万能の芸術家「本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)」
本阿弥家は代々、刀研ぎ、浄拭、目利きを家業にしていました。
長年に渡って受け継がれた技術は、大名達から高く評価され、本阿弥家に刀を預けることが名誉とされていた程でした。
こうした格式高い家に生まれた光悦は、その中でも不世出の名人で、刀剣の鑑定・研磨に止まることなく、蒔絵や陶芸、書道、茶道など多くの部門に非凡な才能を示しました。
それは、多才多芸といった軽いものでなく、すべてにおいて天下第一の名人と評される程の才能だったのです。
中でも優れていたのは書道で、松花堂昭乗、三藐院信尹と共に、三筆の一人に数えられていました。
しかし、芸術家が死を命じられた事件が、戦国の世には多く見られました。
千利休がそうであり、大坂夏の陣で豊臣方に通じたとされ、家康から切腹を命じられた古田織部もその一人でした。
織部は光悦の茶道の師であり、ショックは大きかったと思われます。
「自分も死をたまわるのでは。」という不安が五十八歳の光悦を脅かします。
既に豊臣は滅び、徳川の時代。
京都人である光悦は、大の江戸嫌いで知られ、大坂の陣で勝利した家康が江戸を凱旋したときも拝謁に赴きませんでした。
元和元年(1615)光悦は家康から洛北・鷹峯の地を与えられます。
一見、恩賞の様にも思えますが、盗賊が旅人を襲うので有名な、物騒極まりない土地でした。
この沙汰は体のいい追放で、光悦の態度に業を煮やした家康が、自分の恐ろしさを知らしめる為に行ったものでした。
しかし、これで挫ける男ではありませんでした。
その地に一族、知友、そして絵師、蒔絵師、陶工などの職人と共に移り住み、現在は光悦寺になっている芸術村ともいうべき集落を作り上げてしまいます。
父・本阿弥光二は、刀の鑑定・研磨・浄拭で当代、肩を並べる者がいない程の名人でしたが、いわゆるその道一筋の職人芸に徹した人物でした。
光悦はその殻を脱します。
光悦の描いたデザインに従って、職人達が蒔絵や陶器を作っていくという方法を採ったのです。
私財を投じたこの芸術村の完成は、家康の処分に対する光悦の無言の挑戦状でした。
この地に茶室を造って太虚庵と呼んだ光悦は、死を賜ることもなく八十歳の長寿を全うしました。
まとめ
いかがでしたか。
「力こそが正義」
動乱の時代だった戦国時代。
守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。
裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。
様々な敵に翻弄される現代。
この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。