戦国時代4選【最上義光/伊達政宗/支倉常長/津軽為信】 ~実力者がのし上がる「下克上」が盛んだった戦国時代最強は誰だ!~

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力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

権謀術数に長けた大名「最上 義光(もがみ よしあき)」

権謀術数の士として一際名高いのが、山形城主・最上義光です。

まず、元亀元年(1570)二十五歳の義光は、自分を幽閉した父・義守を隠居に追い込み、弟・義時を滅ぼし、最上家の跡目をもぎとります。

この年、織田信長は、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を撃破。

そうした中央の覇権争いを横目に、義光は伊達政宗や上杉景勝らとの領地争いに明け暮れました。

義光が、陰謀家の本領を発揮したのは、領地を狙って谷地城主・白鳥長久をだまし討ちにした事件でしょう。

嫡男の義康と長久の娘との婚儀を薦めて油断を誘い、義光自らは大病と偽り、長久を山形城内に誘い込んで暗殺。

また、武藤氏が支配する庄内に侵入し、仲裁に入った伊達政宗の意見を聞き入れたかのように見せかけ、再び攻め込みます。

義光の妹・義姫は、政宗の父の妻だから最上と伊達は姻戚関係を結んでいるわけですが、その事件以来続く両家の一触即発の状態は、義光が招いたものなのです。

さらに、義姫と組んで政宗毒殺未遂事件も起こすなど、義光の陰謀は限りないのでした。

「この世に恐ろしいものなどない」とうそぶく義光が、初めて背筋も凍るような恐怖を覚えた相手は、豊臣秀吉でした。

天正十八年(1590)の小田原城攻めに参陣が遅れた義光の運命は、親交のあった家康のとりなしがなければどう転んでいたかわからないものでした。

その論功行賞で、奥羽の諸大名の領地が次々に取り上げられるのを目のあたりにして、義光は胸の底から秀吉の力に戦慄を覚えます。

以後、義光は秀吉の機嫌をとることに細心の注意を払うようになり、家康には次男・家親を近習として仕えさせるなど、打って変わった卑屈な外交戦略を打ち出します。

機を見るに敏といえなくもないですが、謀りごとを弄しすぎると足をすくわれることになります。

奥州征伐で山形城を訪れた関白・秀次の目に留まった十二歳の駒姫を側室に差し出して義光は喜色満面でしたが、秀吉の怒りに触れた秀次切腹の際、正妻共々駒姫も六条河原で処刑されてしまい、このあたりから義光の計略が狂い始めます。

関ケ原の戦いで徳川方についた義光は、五十七万石の大名へと出世します。

すべて思惑通りに進んでいるかに見えましたが、次男・家親に家督を譲るため上杉家に預けていた嫡男・義康を殺害したことが、最上家に災いをもたらすことになります。

これが元でお家騒動が起こり、家親の子の義俊の時に、最上家は取り潰されてしまうのでした。

幕府を脅かした奥州帝国の王「伊達 政宗(だて まさむね)」

伊達政宗は永禄十年(1567)八月三日、米沢城(山形県)で生まれました。

その政宗は、成長期に疱瘡の毒によって右目を失明し、終生隻眼に苦しむことになります。

天正十二年(1584)十月、父・輝宗は十八歳の政宗に家督を譲りますが、翌年十月に再び悲劇が襲います。

かねてから対立していた二本松城(西安達)の畠山義継が和睦・降伏を申し込み、これに応じた輝宗を誘拐。

政宗は追撃し、義継を阿武隈川畔・高田原で追いついて包囲しますが、ついには父親もろとも射殺。

戦国の非情を、政宗が胸の底から思い知らされた事件でした。

以後、政宗は安達郡から南の十和郡、福島、宮城、山形に渡る広大な領土を確保します。

さらに、常陸の佐竹を進攻し、小田原・北条氏と組めば奥州と関東、日本の北半分を支配できると考えていました。

が、この計画は秀吉に阻まれます。

天正十八年(1590)正月、秀吉から小田原城を攻撃するから参陣せよ、という命令が届いたからです。

しかし、政宗は応じませんでいた。

それどころか、秀吉陣営に属していた黒川城(会津)の芦名義広を討ちます。

父・輝宗を騙した畠山に味方した芦名を討ったのは、敵討ちであるという大義名分がありましたが、明らかに秀吉に対する反抗でした。

さらに、小田原参陣に遅れる事件が起こります。

母・保春院が、弟・小次郎を立てようとしたのです。

政宗はこの実弟を斬殺し、母を米沢に追放(のちに仙台に戻った)したのでした。

参陣が遅れたことに激怒した秀吉は、政宗が小田原へ赴くと会見も許さず箱根・底倉の宿舎へ閉じ込めます。

この時、政宗は「田舎者ゆえ礼儀をわきまえない。千利休に茶の湯を習いたい」と前田利家に告げ、秀吉はそれを聞いて引見することになったと伝えられています。

火急の時に、いい度胸だというわけです。

家康・利家を始め諸大名が居並ぶ席上、秀吉は末席に控えている政宗を杖で指して「政宗~」と声をかけ、「是へ々々」と招きます。

政宗は脇差を抜いて預けると、一間(約1.8m)程の場所まで近づいて挨拶します。

その時の様子が「政宗記」に残されています。

田舎者だが、噂にたがわぬ堂々とした男だと、秀吉がいったというのです。

片目ながら、政宗の雄渾さ、大胆さ、そして繊細さを五十五歳の秀吉は鋭く見抜きます。

そして、二十四歳の政宗をいっぺんに気に入り、鎬藤四郎作の名刀を与えます。

これにより、政宗は陸奥五十四郡、出羽十二郡、計六十六郡の約半分を所有する大名として認められました。

時は移ろい、人の世は変わります。

秀吉が病没し、家康が関ケ原の合戦で大勝して天下の帰趨が次第にはっきりしてくると、政宗は足元を固めなければならないと悟ります。

政宗は、それまで使っていた岩出山城(玉造城)を出て、仙台城(青葉城)を造り、仙台を奥州の政治・経済・文化の中心地に育てようとします。

慶長十一年(1606)には、家康の六男・忠輝と長女・五郎八を結婚させ、伊達家の安泰を図りました。

政宗は、反・幕府ではありませんでした。

が、同調路線でもありませんでした。

「奥州帝国」は独立していて、自分はその「王」である。

つまり、非・幕府という路線でした。

大坂冬の陣・夏の陣によって徳川幕府が覇権を握りますが、これに備え、政宗は壮大な策謀を実行に移していました。

強大な幕府と対抗するため、政宗はイスパニア(スペイン)国王の大使セバスチャン・ビスカイノと、フランシスコ会のルイス・ソテロ神父を利用し、大船の建造を行います。

公儀船大工・与十郎を棟梁とし、イスパニア人航海士・技術者との共同プロジェクトで、長さ32.4m、幅9.9m、高さ25.4m、帆柱は29mという巨大な帆船を造りました。

造船所があった月ノ浦(石巻市)には、千人以上の人夫が動員されました。

また、政宗は遣欧大使として支倉常長を任じます。

常長は、慶長十八年十二月十九日(1613)太平洋の波濤万里を越え、ノビスパニア(メキシコ)のアカプルコに到着。

丁度同じ日、幕府は大久保忠隣を総奉行として、伴天連追放・宗徒追放を決定。

常長が帰国したのは、元和六年(1620)であり、折からキリシタン弾圧の嵐は苛酷に吹き荒れ、キリスト教など許される状態ではありませんでした。

政宗も、これには従順に膝を屈していました。

政宗には、常長をヨーロッパへ派遣しているという事実があれば十分でした。

常長は、前後七年間帰ってきませんでしたが、その間、いつイスパニアの艦隊を引き連れて月ノ浦へ戻ってくるかわかりません。

それは、幕府に対する政宗の無言の威嚇であり、少なくとも幕府は奥州にその欲望の触手を伸ばすことはできませんでした。

「これで伊達家は安定した」

と考えた政宗は、寛永三年(1626)従三位権中納言に任じられると、仙台城下・若林(現・仙台市若林区)に隠退。

しかしながら、江戸表に出て将軍に謁見し、諸大名に睨みを効かせることも忘れませんでした。

その後、寛永十三年(1636)五月二十四日、江戸屋敷において七十歳で没し、遺体は仙台・経ヶ峰に埋葬されました。

私は、ドラマを見るのが大好きです。 様々なドラマの種類がありますが、NHK「大河ドラマ」は、歴史上の人物にスポットを当てたストーリー展...

政宗の野望に尽くしてヨーロッパに渡った男「支倉 常長(はせくら つねなが)」

伊達政宗は、約一年交代で仙台と江戸の生活を繰り返しますが、この様な時期に、政宗は宣教師ソテロと出会います。

慶長十六年(1611)五月に政宗は仙台へ帰り、ソテロも後を追います。

これと前後して、イスパニア大使ビスカイノが来日し、幕府の許可を得て日本の東海岸を測量することになりました。

ビスカイノの目的は金銀島探検でした。

これに対して、政宗は自領の測量を許し、ビスカイノを厚遇して援助を与え、良港となるべき場所の調査も行われました。

この時、通訳にあたったのがソテロでした。

政宗は、この二人のスペイン人を通して、世界を支配する二つの強大な権力の存在を知ります。

大航海時代の真っ只中にあるスペイン(フィリップⅢ世)と、バチカン(パウロⅤ世)です。

対して、家康にも下心がありました。

それは、ノビスパニア(メキシコ)産の銀を受け入れるのに必要な、東国の良港の確保でした。

ビスカイノは、政宗の領土によい港があると報じたのでしょう。

政宗は、家康・秀忠と談合し、牡鹿半島の豊富な松と杉を使って、船を建造することにします。

このプロジェクトは、当初から幕府とその意を体した政宗の共同計画だったのです。

大船建造に取り掛かる一方、政宗は使節団の団長として、支倉常長を選びます。

こうして、常長は幕府から託された二千三百梱の交易品をはじめ、多くの日本製品を搭載したサン・ファン・バプチスタ号を出航させます。

船は、九十日をかけて太平洋を横断し、十二月十九日にノビスパニアのアカプルコに入港します。

常長ら百四十名の日本人は、ヤシやサボテンしかない原野の道を胸を張って行進。

メキシコシティに着くと、一行のうち七十八名が、サン・フランシスコ教会で洗礼を受けました。

常長は、ここでは洗礼を受けませんでした。

イスパニアで受けることに決めていたからです。

キリスト教に帰依する効果的なタイミングを狙った演出であったとも考えられます。

それが、輸出入の利益と鉱業・造船など、先端技術の招来に直接結びついていたからです。

政宗の意図は、ひたすら政治、或いは経済的利用に向けられていました。

奥州王として、伊達家を徳川家にアイデンティファイすることに成功した政宗は、一方では家中六十二万石の富国強兵を図ることに腐心していました。

政宗にとって、キリスト教は一つの便宜、口実に過ぎませんでした。

彼は、ひたすらリアリストでした。

どのように冷酷なリアリストであったかは、天正十三年(1585)十月に畠山義継(二本松)もろとも父親の輝宗を殺した事実が雄弁に物語ります。

父・輝宗は、政宗が「奥州の王」となるには邪魔な存在でした。

政宗は、野望を成就するためなら、例え父親でも取り除くことを躊躇わなかったのです。

その様な政宗が、キリスト教に深い理解を持っていたとは考えられません。

支倉常長もソテロも、ビスカイノもキリスト教も、政宗にはどうでもよく、ただ、仙台藩を経済大国にすればそれでよかったのです。

バチカンやイスパニアに膝を屈しても、何の痛痒もなく、それは「虚」に過ぎず「実」は貿易の利だけで、その利益によって蓄えた力で、幕府と対峙しうる存在であり続けることでした。

慶長十九年(1614)五月八日、常長はメキシコシティを出発して大西洋を渡ります。

スペインの港に上陸したのは、九月二日でした。

十月二十一日にはセビリアに到着し、大歓迎を受けます。

セビリアは、ソテロの出身地だったからでした。

十二月二日には、首都マドリッドに入り、翌年一月三十一日、常長はフィリップⅢ世に謁見。

そして、常長はフランシスコ会の修道院において、王の教誨師から洗礼を受けました。

王を喜ばせる為の政宗とソテロの演出であったのでしょう。

王は確かに喜びました。

しかし、常長が携えてきた公文書の内容については、

「朕は皇帝(家康)の意図を嘉納し、そのいとも殊勝なる希望に添ふべき旨を約し、但し好機の熟するまでは、之に就いて議することを差し控える」(「切支丹宗門史」)

と答えるに止まります。

ここで、端無くも常長が政宗の使者であり、幕府の正使ではないことがはっきりしたのです。

公文書の花押は、家康でなく政宗のそれなのでした。

フィリップⅢ世は、日本におけるキリスト教弾圧の状況を既に知っており、答えを濁したのは当然のことでした。

だが、常長には、まだ果たさなければならない仕事がありました。

常長は、マドリッドに八か月滞在した後に、ローマに向かいます。

ローマに着くと、常長はただちにモンテ・カバッロの宮殿において、法王パウロⅤ世に謁見を許され祝福を受けました。

ここで、常長の使命は終わりました。

そのあと、常長は一応の歓迎を受け例の公文書を奉じましたが、パウロⅤ世はそこに記されているのは、神の問題ではなく貿易の問題であることを知っていました。

そのうえ、フィリップⅢ世同様、日本では悲惨なキリシタン弾圧が行われているという情報もイエズス会の報告で知っており、常長は体よくあしらわれて追い返されたのでした。

元和六年(1620)八月二十六日、常長は月ノ浦に帰着。

出発以来、七年の歳月が流れていました。

常長は、元和八年(1622)七月一日に五十二歳で病没し、ソテロは同年に再び日本に来て捕縛され、翌々年大村(長崎県)の放虎原において五十一歳で火刑に処せられました。

不動の地位を掴んだ戦国大名「津軽 為信(つがる ためのぶ)」

津軽氏の歴史は、対南部氏の歴史であるといっても過言ではありません。

永徳三年(1383)津軽氏の遠祖・大浦光信は、死に際し、

「甲冑に身を固め大小の剣をつけ南部に向けて立ったままの姿で埋葬するように」

と遺言したほどでした。

光信は、父祖三代に亘って南部氏に殺されています。

この恨みが生涯を貫いていました。

そして、その怨念が五代・為信によって晴らされる日がやってきます。

南部氏は、北は下北半島(青森県)から南は北上川中央部(岩手県)に及ぶ、広大な領地を支配していました。

当時、南部宗家は信直が継いでおり、父・高信が津軽・大仏ヶ鼻の石川城にいました。

しかし、つきものの後継者問題を抱えていました。

その隙を狙って石川城攻略を目指したのが、津軽為信(大浦為信)でした。

石川城は、津軽における南部氏の拠点で、為信は石川城(弘前市石川町)の近くにある為信の領地内の堀越城を修復したいと高信に申し出ます。

大工や人夫と称して兵数百人を送り込み、土や石を運び込むといって兵糧や矢玉を運搬し、戦闘の準備を着々と進めたのです。

城の修復が終わると、高信の老臣三人を大浦城でもてなし、やがて

「明日は端午の節句、高信に祝いをいいたい。」

と申し出ます。

その夜、僅か八十余騎の兵を率いて、石川城に奇襲をかけたのです。

以後、為信は次々と支城を落としていきました。

こうして天正十三年(1585)五月、十五年目にして津軽統一の悲願はなされました。

この時期、大浦姓を津軽と改名し、戦国大名として不動の地位を掴みました。

また、秀吉が関白になった年でもありました。

為信は、秀吉に鷹を献上するなどして、早くからコンタクトをとっていました。

為信は、いち早く近臣十八人を連れて小田原に秀吉を訪ね、本領安堵の旨の朱印状を手に入れています。

参陣が遅れた南部信直の恨みは深く、以後「土民、童幼、婦女といえども津軽を仇敵視する」ことが南部家中風となり、両家の確執はその後もずっと尾を引くことになりました。

天正十九年(1591)陸奥(青森県)の九戸政実を討伐し、慶長五年(1600)関ケ原の戦いでは東軍に属し、美濃大垣城を落とした功によって上野大館二千石を加増され、為信の所領は津軽と合わせて四万七千石となります。

しかし、慶長十二年(1607)病にかかり五十八歳で病死しました。

高岡に築城中だった弘前城が完成するのは、慶長十五年(1610)年のことでした。

まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。 この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。 ...

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