【力こそが正義】実力者がのし上がる「下克上」が盛んだった「戦国時代」の人物4選 ~毛利輝元、吉川広家、安国寺恵瓊、佐竹義宜~

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力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

小さな三代目「毛利 輝元(もうり てるもと)」

元亀二年(1571)の祖父・元就の死後は「毛利の両川」といわれた吉川元春・小早川隆景の両叔父が輝元を支えました。

豊臣政権下においては、毛利家の復興を目指す隆景の政治方針が実り、秀吉の晩年には輝元は五大老の一人に任命されます。

五大老とは、政権の中枢を担当した五奉行の顧問として、秀吉が任命した大老のことです。

徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、そして叔父の小早川隆景と、錚々(そうそう)たる武将たちが顔を揃えました。

慶長二年(1597)には、よき補佐役であった隆景が没します。

それにより毛利家の主権は、吉川元春の子・広家が握るようになりましたが、小早川氏から頼りにされていた安国寺恵瓊(えけい)との連携はままなりませんでした。

翌、慶長三年(1598)秀吉が死去すると、家康ら実力派側についた広家と、石田三成ら奉行派と結んだ安国寺恵瓊という図式のもとに、毛利家内でも対立が生じます。

慶長五年(1600)の関ケ原の戦い。

輝元は、安国寺恵瓊を介して西軍の盟主に誘われ、広家は輝元に出陣を取り止めるよう諭します。

輝元は、西軍の総大将として大坂城に入城し、秀吉の忘れ形見である秀頼を守護しようとした為、広家はかねてから家康派であったにも拘わらず、西軍に属することになります。

小早川隆景の養子・秀秋は、秀吉の夫人・ねねの兄・木下家定の子で、秀吉の養子となっていましたが、関ケ原の戦いでは、西軍として松尾山に陣取りながら戦い半ばで東軍に寝返って、これが西軍敗北をもたらす原因となりました。

同様に、広家も毛利の老臣達と相談した上で家康に内通し、輝元が総大将として西軍に加担したのは全て恵瓊の采配によるものであると申し入れた。

しかし、大勝利を収めた家康に、輝元は安芸・備後・備中・周防・長門・石見・出雲・伯耆の八か国を削られ、辛うじて周防・長門の二国のみを残されたが、それも実際にはこの広家の功によるものでした。

内通した手柄によって広家に与えられるはずの防長二国を、毛利氏に譲るという成り行きだったのです。

その後、輝元は隠居を命じられ剃髪して宗瑞と号しました。

慶長十三年(1608)に完成した萩城(指月城)を本拠地として余生を過ごし、寛永二年(1625)七十三歳で死去しました。

裏切り者の汚名を背負った男「吉川 広家(きっかわ ひろいえ)」

慶長五年(1600)八月中旬。

九月十五日の関ケ原の戦いを一か月後に控えたこの日、吉川広家は一つの決心をします。

主家である毛利輝元の徳川家に対する反撥は如何ともし難い故、このままでは主家は滅亡の一途を辿ることは間違いない。

かねてから懇意にしている東軍・黒田長政の忠告はただ一つ。

東軍の味方につくなら決戦の前、つまり東軍の勝利が決まる前に徳川家康との講和を成立させることが唯一の主家を救う道であると。

しかし、事はそう簡単にはいきませんでした。

刻々と届く西軍優勢の情報を信じる輝元は、広家の進言に耳を貸しませんでした。

九月十四日。

石田三成率いる西軍は、毛利に何の相談もなく全軍を関ケ原西方の山中に集結。

これを聞いた広家は、輝元に無許可のまま徳川との講和を決断します。

広家は毛利譜代の福原広俊と相談し、長政へ使者を派遣しその結果、毛利の領国を保証した家康方の起請文を受け取って、広俊の弟・左近允元頼と栗屋就光の子・家成を人質として家康に差し出します。

九月十五日。

南宮山には、毛利輝元の名代として毛利秀元を総大将に、宍戸就宗、吉川広家などが布陣。

午前中、東軍・西軍は一進一退の攻防を続けていました。

秀元は、当時二十二歳。

いきり立つ秀元を抑えて、遂に広家は南宮山から動きませんでした。

安国寺恵瓊が南宮山の本陣に自ら赴いて出陣を要請した時、広家は、

「我々は大垣城近くで東軍と相対する約束だった。」

「関ケ原で戦いをするという話は聞いていない。」

「この関ケ原で戦うということが決定された場に、毛利一族の誰が列席していたのか。」

と反論します。

そして、恵瓊は答えられませんでした。

勝負は東軍の勝利。

初めて、輝元は講和の事実を知ります。

広家の行為を、輝元は了解。

毛利の領国は従来のままとはいきませんでしたが、広家の努力によって十月十日、周防・長門二国を毛利の領とすること、毛利輝元父子の命は保証すること、この二点が明記された家康の誓紙が毛利側に渡されました。

この様に、広家の機転によって、毛利の所領を全て没収されるという危機から逃れられたにも関わらず、秀元を始め家中の視線は冷たいものでした。

広家は、裏切り者の汚名を背負ったのです。

広家の死後も、毛利本家から吉川家は徹底的に冷遇され、それは幕末までの二百数十年に及ぶことになりました。

禅門最高の地位に辿り着いた僧「安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)」

天文二十年(1553)恵瓊は一生を左右する東福寺の恵心に巡り合います。

恵瓊の師となった恵心は、後に京都・東福寺の大部分を住持する程の賢僧で学識豊か、弁舌巧みな禅僧でした。

その影響を受けながら、恵瓊は修行を重ねます。

恵心が毛利隆元と親交を重ねていた縁で、恵瓊も毛利と親密になります。

当時、地方の有力大名は京都との結びつきを求める必要があり、毛利氏もまた、中央に力を持つ恵心と密接な関係を持ちたがっていました。

こうしたことから、恵瓊は、毛利氏の外交官として活躍することになったのです。

永禄十二年(1569)毛利が大友宗麟と和議を結ぶため、恵瓊が毛利を代表して将軍・足利義昭に斡旋を乞います。

結果、宗麟は義昭の調停を受け入れて、毛利に対する軍事行動を中止。

天正元年(1573)信長が義昭を追放すると、輝元が義昭の依頼を受け、義昭と信長の講和を斡旋することになります。

この時、恵瓊は輝元の使者となって奔走し、秀吉と面識の機会を得ます。

天正十年(1582)六月、本能寺の変が起こった時、恵瓊は備中・高松城(岡山)において、毛利との和議に奔走し、秀吉に認められます。

伊予・和気郡に二万三千石を与えられ、その後に加増されて六万石を領しました。

京都・南禅寺住持に任ぜられ、恵瓊が禅門では最高の地位についた慶長五年(1600)九月、恵瓊の生涯を決める戦いが起こります。

それは、関ケ原の合戦でした。

この戦いで恵瓊は、佐和山城で大谷吉継・石田三成と共に、家康打倒の謀議に加わります。

輝元は、恵瓊の勧めに従い、西軍につきました。

九月十五日、関ケ原の合戦の日、恵瓊は安国寺与力衆を率いて南宮山に陣していましたが、松尾山に陣した小早川秀秋の裏切りによって敗れます。

恵瓊は鞍馬山の月昭寺に隠れ、建仁寺に潜みます。

しかし、九月二十二日に捕えられ、十月一日、六条河原で処刑。

天正十一年(1583)十二月五日、戦国末期の世情について、恵瓊は生涯を通して学んだ事をこう述べています。

今の世の中は、男の衣装が美しく、言葉が爽やかであることなど必要ではない。

どのような財産家でも駈ける馬が一匹いれば、公用がつとまる。

実質こそ重んじなければならないと。

家康に兵三百を送った男の悩み「佐竹 義宣(さたけ よしのぶ)」

常陸(茨城県)に五十四万五千石を領し、徳川や前田、毛利などの大大名と共に六大姓(たいしょう)に名を連ねたのが佐竹義宣です。

その領地と発言力の拡大は、石田三成の尽力なくしてはあり得なかったが、後に出羽・秋田への減封・国替えの原因ともなりました。

二人が急接近したのは、天正十八年(1590)のことです。

家督を継いで間もない義宣が、豊臣秀吉に常陸全域の支配を上申した時、都督である佐竹に常陸の武将が従わないのは太閤をないがしろにするも同然と、強力な後押しをしたのが三成でした。

それによって義宣は、大掾(だいじょう)一族(三十三氏)を討伐して、実質八十万石ともいわれる肥沃な領土を支配下に入れることができました。

この時の三成への恩義が、その後の義宣の政治判断を左右することになります。

秀吉亡き後、豊臣政権内では加藤清正を中心とする武闘派と、石田三成の文治派の抗争が激しさを増していました。

武闘派は遂に、三成襲撃に踏み切ります。

この時、まさに討たれようとする三成を救出したのが、義宣でした。

しかも、三成と敵対していた徳川家康に解決を願い出るという行動をとります。

驚きつつも家康は「私意で討伐してはならない」と主張する義宣の救出理由の正当性と、敵対する相手に三成を預けた老獪さに感服し、同時に「佐竹は三成派」という色分けが家康の心に焼きつけられた出来事でもありました。

関ケ原の戦いに先立ち、義宣の動きに危惧を抱いた家康は、人質を要求すると共に使者を送って真意を図ろうとします。

義宣は、西軍に組んだ会津の上杉景勝と、密かに呼応していました。

上杉討伐に動いた家康からの出陣要請にも応じようとしませんでした。

しかし、家康が次の天下をとる人物だということも義宣は理解していました。

従って、義宣は西軍が敗れた時に訪れる佐竹家の悲劇と、三成に弓引くことは出来ないという強い思いに迷います。

家中も揺れました。

悩み抜いた末の決断が、信濃の上田城を攻めた徳川秀忠への僅か三百の兵の援軍でした。

その苦渋の決断を、家康は許しませんでした。

出羽・秋田二十万石への国替えを命じられたのは、慶長七年(1602)のことです。

大坂・冬の陣では、はっきりと徳川方について豊臣軍を破る武功をたてた義宣は、国替えから約三十年の後六十五歳で江戸で病没しましたが、それまで雪深い奥州の地で、能楽や茶の湯を楽しみながら静かな日々を送りました。

まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。 この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。 今回は...

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