【力こそが正義】実力者がのし上がる「下克上」が盛んだった「戦国時代」の人物4選 ~徳川家康、本多忠勝、井伊直政、鳥居元忠~

スポンサーリンク

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

天下を分けた「伊賀越え」の判断「徳川 家康(とくがわ いえやす)」

天正十年(1582)五月、信長は備中・高松(岡山)を水攻めにしていた秀吉の後援をする為に安土城を出発し、京都・本能寺に滞在していました。

家康もそこへ伺候(しこう)する為、堺見物や豪商の接待を終えて穴山梅雪、本多忠勝らと京都を目指します。

六月二日朝、本多忠勝は家康が訪問することを前もって信長に知らせる為、家康より先に堺から京都に向かいました。

ところが、正午ごろ河内・枚方で、信長が光秀に殺されたことを家康に報告する為に堺へ向かっていた茶屋四郎次郎と出会います。

そのころ堺を出発していた家康は、まだ河内・四条畷にいました。

茶屋と共に急遽引き返して家康一行と会った忠勝は、信長の訃報を伝えます。

四十一歳で冷静さと周到さを兼ね備えていた家康も、この時ばかりは激しく狼狽したといいます。

しかし、重臣達に促されて我に返ると、家康はようやく難儀な道のりである伊賀の山道を越えて逃げようと判断します。

郷里の甲斐に逃げようとした穴山梅雪は、途中の山田村で家康一行と別れましたが、四~六時間後に木津川西岸で村民と争いを起こし、家来共々殺されてしまいます。

家康一行はひたすら先を急ぎました。

金銀をばらまき、時には威嚇し、時には刀槍で戦いもしました。

また、服部半蔵、富田弥兵衛、山中覚兵衛ら「伊賀者」という強力な助っ人を得ます。

伊賀者達は以前、信長に追い散らされた時に、家康に保護してもらったことへの感謝の気持ちを今回の協力という形で応え、家康は無事に伊勢湾側の白子港までたどり着きます。

梅雪の様に只々逃げ惑うのではなく、家康の様に普段からいざという時の為の布石をしておかなければ、戦国の世は生き抜けなかったのです。

六月三日、たまたま白子港に寄港していた角屋七郎次郎の廻船を使い、伊勢湾を乗り越えて四日早朝には三河大浜に無事到着。

岡崎城に戻った家康は、ただちに梅雪の所領を押さえ、光秀と戦う為に十四日には尾張・鳴海(愛知)に向けて出発します。

十六日、家康の先鋒・酒井忠次が尾張・津島(愛知)まで進出した時、既に秀吉が山崎の合戦で光秀を下し決着がついていました。

家康が「伊賀越え」に苦戦していたころ、秀吉は迅速に軍を進めていたのです。

この時、ほんの少しの遅れの為に、家康は秀吉に天下を取られ、その後暫くは秀吉に従属する協力者という立場に甘んじなければなりませんでした。

大河ドラマと言えば、戦国時代! 戦国武将の生き様をドラマ化する事で、戦国武将に対する印象が変わったりする事もあります。 そこで今...

生涯持ち続けた武士の心得「本多 忠勝(ほんだ ただかつ)」

「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八。」

徳川四天王の一人である本多平八郎こと忠勝は、天文十七年(1584)三河(愛知県)に生まれます。

忠勝の初陣は十三歳で、永禄三年(1560)家康が尾張(愛知県)大高城に兵糧を搬入するのに従軍します。

大高城は、今川義元の大事な前線拠点の一つでした。

織田信長は桶狭間に義元を急襲して大勝し、その時、家康は大高城にいましたが、急いで岡崎城に退却しています。

以来、忠勝は家康の側近として勤めることになります。

十五歳の時、今川勢が三河・長沢に侵入したので、忠勝は戦場に赴きます。

叔父の本多忠真が敵を突き倒して「首を取れ」と言うと「人の力を借りてまで武功をたてるには及ばず」といい捨て、乱戦の中に飛び込んでたちまち首級(しゅきゅう)をあげました。

以後、出陣すること五十数回、一度も手傷を負わなかったといいます。

「まことに我が家の勇将」と家康に言わしめました。

忠勝には、頼りになる武器がありました。

それは「槍」でした。

忠勝が愛用した槍は「蜻蛉(とんぼ)切り」と名付けられていました。

二十尺、つまり約六メートル程の長さで、柄が太く青貝を摺ってありました。

蜻蛉が槍先に止まろうとしたところ、あまりの鋭さに体が切れて死んでしまったという逸話が「蜻蛉切り」の由来です。

またある時、次男の忠朝と共に船で葭(よし)の生えている川を移動しているとき「その葭を薙いで見よ」と忠朝に命じました。

忠朝が薙ぐと、三間ばかりの葭が折れました。

「そんなことか」と忠勝が自ら片手で薙ぐと、穂の下二尺程の所で、鎌で切ったかの様に鮮やかに切って見せます。

忠勝の腕力が、並々ならぬものであったことを物語る話です。

後年「武器は自分に合ってこそ」と、柄を三尺程切り捨ててしまいます。

流石の忠勝も、歳には勝てなかったのです。

関ケ原の戦いにおいても、忠勝は東海道を西上する先鋒の役目を見事に果たしますが、やがて徳川政権の基盤が安定すると、戦場の勇士である忠勝は活躍の場を失っていきました。

死にともな 嗚呼死にともな 深き御恩の 君を思へば

慶長十五年(1610)十月、桑名城で病死した忠勝は、最後になっても武士たるものの心得を説いています。

元亀三年(1572)武田信玄の軍に大敗を喫した三方ヶ原で、家康が最大の危機に陥ったとき、忠勝は殿軍を務め、家康を浜松城まで撤退させることに成功。

黒糸の鎧の勇姿こそが、勇士・忠勝でした。

「赤鬼」と称された強豪「井伊 直政(いい なおまさ)」

天正十年(1582)六月、信長が本能寺で討たれて家康が「伊賀越え」をしたとき、従っていた直政はまだ、小姓組に属していたにすぎませんでした。

しかしその直後、家康が甲州に入り、北条氏の大軍と対陣した時のことです。

徳川・北条共に、甲州を我がものにしようと目論んでいました。

この和議に臨んだのが、北条家からは北条氏規、徳川家からは二十三歳の井伊直政でした。

北条との和議成立後、家康は甲州武士を徳川軍団に組み込みます。

この甲州武士団は優秀な戦闘軍団で、誰もがこの軍団を欲しがりました。

酒井忠次は、この軍団を直政に推挙しましたが、榊原康政が黙ってはいませんでした。

半分でもいいから自分にと、申し出ます。

が、忠次は自分の一存で願い出たことだと突っぱね、康政にこういい放ったといいます。

「汝、あくまで横車を押すつもりなら、汝の一族を皆串刺しにしてくれるわ」

山県昌景が「赤備え」と称し、旗・幟(のぼり)をはじめ武具・甲胄(かっちゅう)まで赤一色の武装にしたのに倣って、直政はこの赤備えをそのまま踏襲します。

赤備えによって、どんな乱戦でも敵か味方かよくわかるようになりました。

直政は、これをそのまま利用。

こうして山県・一条・甘利・土屋の諸将を寄親にしていた甲州武士が、直政の家臣となりました。

小牧・長久手の戦いの後、秀吉は直政をその強豪ぶりから「赤鬼」と称しました。

慶長五年(1600)直政四十歳のとき、天下分け目の関ケ原の戦いが起こります。

東軍は左翼・福島正則隊、中間に細川、加藤、田中、筒井らが並び、右翼には黒田長政らの布陣が組まれ、井伊の赤備え三千六百余名の兵も、これに加わっていました。

直政は、家康の四男・松平下野守忠吉の後見役として同道。

何より直政は、この大決戦の火ぶたを切るのは徳川直臣であるべきと、既に先鋒と決まっている福島正則より、一歩でも早い先駆けの機会を狙っていました。

八時少し前に赤備えの先頭一角、四、五十名が動き出し、功を上げることになります。

関ケ原の戦いの後、直政は石田三成の居城・佐和山城十八万石の領主となり、新しく六万石を与えられ、彦根一帯の十六万石の城主となります。

関ケ原の戦いで敗走していた島津義弘を追撃したとき、右肘(左脇腹ともいわれる)を負傷し、その鉄砲傷が元で二年後「赤鬼」は四十二歳の生涯を閉じました。

真の「忠義」とは何か「鳥居 元忠(とりい もとただ)」

元忠は家康の竹馬の友であり、また三方ヶ原の合戦では浜松を守り、長篠の合戦では左腿を撃ち抜かれては跛行(はこう)になり、高天神城(静岡県)攻略、駿河平定、小牧・長久手の戦いと、常に家康の側近にあって忠実に戦った、文字通りの戦友でした。

本能寺の変の直後、家康は甲州(山梨県)に進出するが、その時、武田家の宿将・馬場美濃守信房の娘が某所に隠れているという情報がありました。

家康は元忠にその捜索を命じますが、いつまでたっても返事がきません。

暫くして、どうなったかと問い合わせたところ、元忠が自宅に連れ帰っていたことがわかります。

家康はその報告を聞いて「抜け目のない男よ」と笑ったといいいます。

元忠は、この女性との間に、三男一女をもうけたと伝えられます。(「岩淵夜話」)

関ケ原の戦いの直前、三成はまず、家康の西の拠点である伏見城の攻略に取り掛かります。

家康は上杉征伐に出かける為、六十二歳の元忠に留守役を頼んでいました。

元忠は、骨の髄から愚直頑固な男でした。

三成の使いが早々に城の明け渡しを勧告したが、にべもなく断ります。

やがて、四万の軍勢が伏見城に押し寄せてきます。

それは、凄い顔ぶれでした。

島津義弘、立花宗茂、宗智義、宇喜多秀家、鍋島勝茂、毛利秀元ら、選りすぐりの強豪が揃っていました。

城を守っていた将兵は千八百だから、二十二倍強の軍勢です。

包囲軍の攻撃は二十日に始まり、すぐさま激しい銃撃戦となりました。

城中千八百の将兵は、実によく戦い、押し寄せる四万の軍の波状攻撃に耐え、反撃して一進一退の状態に持ち込みます。

事態が急変したのは、三十日の夕刻になってからでした。

攻めていた長束(なつか)正家が、城中の松ノ丸に江州・甲賀(滋賀県)の旗を見つけ、同郷のよしみで内応を勧めます。

というより「もし内応しなければ、国もとにいるお前たちの一族妻子は磔(はりつけ)にする」という脅迫で、翌朝、八月一日未明に甲賀衆は内応して松ノ丸に火をつけ、城壁を四、五十間も突き崩して長束隊を招き入れます。

元忠は、将兵を叱咤して戦いましたが、続いて小早川秀秋隊が乱入し、火矢を放ちました。

元忠が長篠の合戦で左足をやられて跛行(はこう)になったことは先に述べましたが、それでも次から次へと乱入してくる敵兵の中へ躍り込んでいって、槍(長刀)を振るい力尽きるまで奮戦し、ぎりぎりまで戦ってから首を突いて自害しました。

真実の「忠義」とは何かを、身をもって示した人物でした。

まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。 この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。 今回は...

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で
スポンサーリンク
Translate »