「戦国時代」伝説の有名人図鑑4選【浅井長政/朝倉義景/本願寺光佐/雑賀孫市】 ~武将たちが命を懸けて天下統一を夢見た「戦国時代」の逸話や出来事とは?~

スポンサーリンク

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

信長を理解できなかった男「浅井 長政(あさい ながまさ)」

信長は、天下統一への大きな足がかりとなる美濃攻略に際し、甲斐の武田氏、越後の上杉氏、三河の徳川氏、そして近江の浅井氏と同盟を組んで、後顧の憂いを無くそうとしました。

信長は、浅井氏との同盟の条件として、長政と妹・お市の婚儀を申し入れます。

長政は、同盟者である朝倉氏を攻めないでほしい、どうしても攻めるときは一報するという条件で同盟します。

長政とお市は至って夫婦仲がよく、二男三女をもうけて幸せな家庭を築きます。

ところが、平穏を乱す者が現れます。

それは、足利義昭でした。

義昭は、将軍職につく前に身を寄せていた朝倉義景に協力を要請した為、義景は反・信長色を露わにします。

怒った信長は、大軍を率いて朝倉討伐のために越前に侵入し、金ケ崎城(敦賀市)を攻めました。

驚いたのは、長政でした。

朝倉を取るか、義兄の信長を取るかを迫られた結果、朝倉を取ります。

夫と兄の板挟みになったお市が、挟撃されていることを信長に知らせる為に、両端を紐で括った小豆の袋を届けさせます。

それは、長政が裏切ったというサイン。

朝倉と浅井軍に挟まれて身動きできなくなった信長は、木下藤吉郎(秀吉)に殿軍をつとめさせて、必死の思いで撤退します。

信長は、このときほど危機に追い込まれたことはありませんでした。

京都に逃げ帰った信長は、すぐさま軍勢を立て直し、徳川家康との連合軍をもって浅井・朝倉討伐に取り掛かります。

これが、元亀元年(1570)の姉川の合戦でした。

決死の覚悟をした浅井軍は勇猛に戦いましたが、徳川軍に崩された朝倉軍が持ちこたえることができず共に敗退。

大打撃を受けた浅井軍は、辛くも残った小谷城に戻って信長に対抗し続けます。

姉川の戦から三年目の天正元年(1573)、信長は引き続き朝倉義景を攻めて自滅させ、小谷城の猛攻撃を開始しました。

信長は何度も降伏を勧告したが、長政は応じません。

そして最期の時が迫ったとき、長政はお市と子供たちを城から逃して自刃します。

二十九歳の若さでした。

総攻撃が始まる直前にお市と共に城を出た長政の娘達は、この後の歴史の流れのなかで重要な役割を果たすことになります。

長女の茶々は秀吉の側室・淀君となり、二女のはつは京極高次の夫人となり、三女の小督は徳川二代将軍・秀忠夫人になりました。

見方によっては、長政は女たちによって豊臣・徳川と続く天下の覇者達に影響を与え続けたことになります。

それは、彼女達が天才・信長の血を引いていたからに違いない。

1日10分からできる!節約・副業でお小遣い稼ぎ!ポイ活ならモッピー

時代を見抜けなかった文化人大名「朝倉 義景(あさくら よしかげ)」

義景は室町幕府と関係が深く、足利義昭とは類縁関係にも当たる間柄であったから、義昭が都を追われ身を寄せてきた時も、歓待し親身になって世話をしました。

兄を殺された義昭は、室町幕府を再興する使命を持っていました。

そのため、義景が挙兵して上洛を果たしてくれることを望みます。

ところが、中々上洛しない義景に見切りをつけた義昭は、ついに尾張の新興勢力である織田信長に鞍を乗り換えます。

信長の行動は義景と比較にならないほど素早く、約二か月後には義昭を奉じて、易々と上洛を果たし、義昭を将軍に据えることに成功したのでした。

絶好のチャンスを奪われたかたちの義景は、信長に屈することを拒絶し、また信長は義景をなんとしても排除しなくてはならないと思っていました。

元亀元年(1570)信長は越前に侵入。

ところが、義弟の浅井長政の裏切りによって一挙に窮地に陥り、信長は、ほうほうの体で逃げ延びます。

難を逃れた信長は、それでも二か月後には早くも体勢を立て直し、徳川家康と連合軍を組み、対する朝倉・浅井軍を姉川の合戦で撃破します。

その後、信長の泣き所は、中仙道が通る近江でした。

比叡山の宗徒の協力を得た義景と浅井勢は近江に進出し、坂本(大津)を占領して信長を脅かします。

一方、反・信長勢力の要である武田信玄も、家康の領国である遠江に侵攻。

この信長追撃のチャンスを、義景はふいにしてしまいます。

ピンチに立たされた信長が、朝廷に義景との和睦を申し入れたのです。

義景は、あっさり和睦を受け入れ越前に帰ってしまいました。

さらに、信玄が西上途上で病死するに至り、完全に立ち直った信長は、本格的に浅井の本拠・大谷城に迫ります。

浅井軍に援軍を求められた義景は近江に出陣したが、義景は大谷に到着する前に敵前逃亡し、越前に逃げ戻ってしまいます。

浅井攻めを中断した信長は、急拠、朝倉軍を追撃。

信長軍の猛攻に朝倉軍は戦意喪失し、義景自身も僅か二、三十騎を従えて、一乗谷から逃亡。

その一乗谷に、信長は火を放ちます。

さらに身内も既に義景を見限り、一族の景鏡は軍勢を率いて義景に自刃を迫ります。

義景は呪詛の言葉を残し、自害して果てます。

こうして名門・朝倉家は滅亡し、雅な文化を誇った一乗谷も、一瞬のうちに消えたのでした。

信長に敗けなかった浄土真宗のリーダー「本願寺 光佐(ほんがんじ こうさ)」

天文二十三年(1554)石山本願寺の顕如は、十二歳で十一世法主を継ぎます。

ここに登場するのが、信長です。

永禄十一年(1568)足利義昭を奉じて上洛した信長は、堺に矢銭(軍資金)二万貫(約三十億円といわれる)を出せといい、本願寺にも同じく矢銭五千貫を要求。

堺がこれを拒否して手酷い目に遭うのを見た本願寺は、とりあえずこれに応じます。

しかし翌年、信長はさらに石山から退去せよと要求。

この本願寺明け渡しを、顕如は拒みます。

と同時に、全国の門徒衆に檄を飛ばし、信長と徹底的に争うことを命じます。

元亀元年(1570)八月、信長は石山攻めを開始。

顕如側は、猛反撃に出ます。

動員された紀州・雑賀、根来衆が三千の鉄砲を撃ちかけ、流石の信長も京都へ引き上げざるを得ませんでした。

矛先を転じた信長は、元亀二年(1571)九月に、比叡山を焼き打ちにします。

翌年の元亀三年十月、顕如の義兄である信玄が三万の軍を率いて西上を開始し、浜松では徳川家康を蹴散らして進撃を続けると、流石の信長の命運も尽きるかに見えました。

しかし、この翌年四月に信玄が陣中で病没すると、信長は一気に攻勢に転じます。

信長は、翌年の七月には十万の兵をもって伊勢・長島の門徒衆を総攻撃。

門徒衆の城はことごとく落ち、男も女も皆殺しにされます。

この為、顕如はやむなく第二次和議を結びました。

信長は、天正四年(1576)一月、またもや石山攻めに取り掛かります。

五年に亘る籠城戦の始まりである。

籠城戦といっても、本願寺を支援する門徒が各国に散在しており、毛利の水軍や雑賀(和歌山市)の鉄砲隊が執拗に信長軍を苦しめます。

門徒衆は死を恐れないから、始末に負えませんでした。

それでも、信長はなんとか雑賀衆を制圧し、巨大な鉄甲船(軍艦)で毛利軍の大坂湾進入を阻止し、瀬戸内の制海権を奪い返します。

策謀に策謀を重ねて信長と戦い続けた顕如ですが、ここに至って石山本願寺から船で紀州・鷺ノ森(和歌山市)へ退去します。

顕如の息子の教如(光寿)らが籠城する動きを見せますが、結局これも信長に屈服して八月二日に雑賀に移ります。

このことが、家康の時代に東・西本願寺に分裂する遠因になりました。

だたし、この時たいまつの火の粉のためか、教如の指図に従ってか、石山本願寺は三日間炎上し消滅してしまいます。

秀吉は後に、その場所に大坂城を構築したのでした。

鉄砲集団を率いた謎の名将「雑賀 孫市(さいか まごいち)」

「かかるところに雑賀の軍勢あまたに馳せ参り、入れかへ入れかへ、放ちかけたれば、鉄砲の音百千の富も鳴り落ちたるやうに覚えたる」(「信長公記」)

永禄十一年(1568)に足利義昭を奉じて上洛を果たすと、信長は本願寺に多額の失銭を強います。

さらに、大坂を立ち退くように迫りました。

織田信長が石山本願寺を攻めたのは、元亀元年(1570)に始まって以後、十一年に及びました。

天正四年(1576)、本願寺顕如(光佐)が雑賀衆に救助を求めると、雑賀衆は水軍と自慢の鉄砲部隊で石山救助に立ち上がります。

鉄砲衆の数は、約五千。

鉄砲の数は、三千とも四千挺ともいわれています。

信長は明智光秀、荒木村重らに大軍を任せて攻め立てました。

この時の雑賀衆、鉄砲隊の戦法は、冒頭に述べた通りの見事なものでした。

二十五人を一組、計五十人・二組を一隊とし、それが交互に弾を込め射撃。

のちに長篠の合戦で名高い武田騎馬隊を打ち破った信長は、自軍を三隊に分けて間髪を容れずに射撃して勝利を得たことは承知の事実ですが、雑賀衆がその戦法を既に使っていたことになります。

このとき、信長は狙撃されて足に負傷しています。

その雑賀鉄砲衆を率いていたのが鈴木孫市重秀、通称・雑賀孫市と呼ばれた男です。

雑賀は古来、砂鉄の産地でした。

地名の「雑」は古代語「錆」を意味していて、つまり「雑賀」とは鉄器工人の住む所という意味があります。

細工の名人・雑賀孫市が製作し、塙団右衛門に贈った面頬などが今でも残っています。

「孫市、細工の名人にて、殊に頬面の製、無類にて名作と称するなり」(「常山紀談」)

またこの地は、火縄銃の製造を始めて以来、鉄砲の産地となって鉄砲の名手を次々と生み出しました。

天正五年(1577)正月、信長は雑賀衆退治に本腰を入れ始めます。

織田十万の大軍との戦いは二月、三月と続きました。

孫市は銃撃戦で負傷し、三月二十一日にはついに降伏を決意。

この後の孫市の消息は不明。

鈴木孫市重秀と雑賀孫市が同一人物ではないという説もありますが、それもまた定かではないです。

まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。 この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。 ...

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で
スポンサーリンク
スポンサーリンク
Translate »