【力こそが正義】実力者がのし上がる「下克上」が盛んだった「戦国時代」の人物4選 ~織田信長、荒木村重、足利義昭、松永弾正~

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力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

豪勢な旅から本能寺の変へ「織田 信長(おだ のぶなが)」

信長は、信玄を最も恐れていました。

その信玄が病に倒れて、後継者・勝頼とその子の首を討ち取ったことは、信長にとって非常に意味深いことだったと思われます。

天正十年(1582)三月、信玄・勝頼・信勝と三代の死を内外に誇示したあと、信長は高遠、さらに諏訪へと陣を進めます。

この道中、信長は武田軍攻撃に際して戦功があった者に、奪取した土地や豪華な戦利品を惜しみなく与えながら旅を続けます。

四月三日、信長は台ケ原(北杜市)から南下し、尾白川の手前を左に折れて長坂へ向かい、花水坂を登った途中、暗く重い鉛のような雲がいつの間にか消え、まばゆく煌めく雪を被った富士が、信長の目に飛び込んできます。

生まれて初めての名山に、信長をはじめ諸将は、

「山あひより名山、是ぞと見えし富士の山、かうかうと雪つもり、誠に殊勝面白き有様、各々見物、耳目を驚かし申すなり」

と深く感嘆したといいます。

その後、信長は笛吹川を渡り、駿河へ抜けます。

駿河は、家康が信長から与えられた国であり、四月十日、その礼の接待のために家康が陣に駆けつけたと「信長公記」に記してあります。

周到な家康は、信長が駿河に来る前に、秘書役であった長谷川竹を借りていました。

信長を喜ばせる方法を長谷川からこと細かに聞き出して、特別な接待で信長を迎えます。

例えば、信長軍の担ぐ鉄砲が道の両側の木々に引っかからぬよう枝を切り落とし、道の傍らにある陣屋周囲には、千軒以上もの兵士用の小屋をつくり、食料をたっぷりと蓄えてました。

結果、信長はいたく上機嫌でした。

さらに、道は石をどけて平らにして、一夜しか宿泊しない場所にも金銀をちりばめた陣所を、峠の入口には館や茶屋を建てて酒肴を献上し、信長を満足させます。

中でも、一番念が入っていたのは大井川でした。

馬で川を渡る信長軍の両側に、泳ぎの得意な男たちをずらりと並べて川の流れを弱めつつ、いざという時には、すぐに信長や将兵を助けられるようにしたのです。

後にも先にも、こんなに律儀に忠誠を尽くした人物はいないでしょう。

それほど、家康は信長に対して深い畏敬の念を抱いていました。

しかし、この完璧な接待が信長を油断させ、無防備に本能寺へと旅立たせる大きな要因になったのかもしれません。

富士の美しさに驚嘆してから、丁度二か月後の六月二日、信長は明智光秀によって襲撃されたのでした。

家臣を棄てた武将「荒木 村重(あらき むらしげ)」

元亀四年(1573)三月、織田信長は将軍・足利義昭の動きを封じるために入京します。

大半の者が、村重は義昭につくと思っていましたが、村重は率先して信長に忠誠を誓います。

七月、信長は宇治の槇島城に、義昭を攻めて追放します。

信長はこの時の村重の功労を評価して、摂津一国を任せます。

引き続き、有岡城を攻めた村重は北摂津をも治め、天正六年(1578)一月には、信長の茶会に招かれるほどになっていました。

しかし、その数か月後に思いもかけぬ事態が起きます。

村重が、謀反を起こしたのです。

この頃、信長に大きな壁となって立ちはだかっていたのは、石山本願寺でした。

石山本願寺は、村重が領する摂津国の東端に位置していました。

村重の謀反の発端は、村重の部下が、籠城している石山本願寺方に兵糧米を売って私利を貪ったことだといいます。

これをもし信長が知ったらどんなことになるかを恐れた故の謀反だと言われていますが、理由は不明です。

何れにせよ、村重の謀反の報が信長の耳に達します。

信長の驚きは想像に難くない。

早速、明智光秀・松井有閑らを、説得の使者として村重のもとへ送ります。

光秀の説得に、村重は一旦は安土に母親を人質に差し出すということになります。

しかし、茨木城主・中川清秀が、あの信長が一度背いた者をそのままにしておくはずがないと忠告し、秀吉は黒田官兵衛を説得に送ったが、逆に官兵衛を牢に閉じ込めてしまいます。

怒った信長は、嫡子・信忠、明智光秀らの大軍を差し向け、村重は孤立します。

頼みの中川清秀、高山右近も開城して、毛利を最後の頼りに伊丹城だけが残りました。

しかし、待てど暮らせど毛利軍は現れません。

天正七年(1579)九月二日の夜。

村重は、従者数人を連れて有岡城を脱出します。

敵前逃亡である。

主のいない有岡城は十一月に落城し、村重は嫡子・村次のいる尼崎城へ向かいます。

残された家老・荒木久左衛門は何とか村重の妻子を助けようと、信長方に尼崎城、花隈城の開城を確約しますが、その久左衛門もまた逃亡してしまいます。

結果、有岡城に残された男女百二十名が、ことごとく磔になりました。

これは、信長三大虐殺の一つといわれています。

当の村重は、尼崎から兵庫、さらに尾道に逃げて、毛利の客人として生き延びます。

その後、秀吉に召し出されて、茶人として重んじられました。

後世「利休七哲」の一人として数えられましたが、自らを「道糞」と称したという。

策謀に明け暮れた生涯「足利 義昭(あしかが よしあき)」

永禄十一年(1568)七月、義昭が岐阜の信長のもとに身を寄せると、信長は迅速に行動を開始します。

二か月後の九月には、六角氏・松永氏らを破り、京都から三好一党を追放。

十月、義昭はついに念願の征夷大将軍に任じられ、室町幕府を再興しました。

有頂天になった義昭は「恩人・信長」を管領にしようとしますが、信長は固辞。

なぜなら信長は、室町幕府の権威になどに何の魅力も感じていなかったのです。

翌年の二月になると、信長は自ら陣頭指揮し、義昭の為に僅か二か月ほどで、御所を建造します。

四月に信長が一旦岐阜に戻ることになると、義昭は涙まで流して信長の姿が消えるまで見送ったといいます。

御所が完成し、すっかり自分の手で幕府を再興させたと思い込んでいた義昭は、将軍ぶりを発揮しようとして政治的活動を始めます。

上杉氏や毛利氏、大友氏などに書状を送ったり、朝倉義景と本願寺との和解を求めたますが、この様な義昭の行動に信長は不快感を抱き、警戒心を強めて翌元亀元年(1570)正月になると「殿中御掟」を定めます。

義昭がどこかに御内書(命令書)を出すときには信長の添状をつけるべきことなど、義昭の行動を制限したのでした。

薄々は感じてはいたものの義昭は信長の真意に気がつき、以後、二人の闘いが始まります。

京都方面を落ち着かせた信長は、朝倉義景の討伐に着手。

ところが、近江の義弟である浅井長政の裏切りによって、朝倉・浅井に挟撃されるという危機に陥ります。

これを見た義昭は、これ幸いと諸将にせっせと御内書を送りつけて、反・信長勢力を結集しようとします。

信長は、義昭のせいで、石山本願寺や武田信玄と戦わなくてはならなくなったわけです。

義昭がかくも筆マメでなかったら、戦国の歴史は変わったものになっていたでしょう。

信玄が上洛の意志を固めて行動を開始したのも、義昭が後ろで糸を引いていたからに他なりません。

信長もついに堪忍袋の緒が切れ、元亀三年(1572)になると「異見一七条」を義昭に突きつけ、こと細かに難詰します。

これは、傀儡とはいえ仮にも将軍である義昭を討伐する大義名分を立てるために行った、信長の作戦でもありました。

天正元年(1573)義昭は、ついに挙兵して信長に反旗を翻します。

信長は、一応は義昭に和議を申し入れますが、義昭はあくまで戦う姿勢を崩しませんでした。

山城の槇島城に拠って抵抗しますが、結局、信長に屈し、ここに室町幕府は名実ともに滅びました。

陰険卑劣で強烈な個性「松永 弾正(まつなが だんじょう)」

松永弾正少弼久秀は、骨の髄まで陰険卑劣なえげつない人物で、永禄十年(1567)十月には、東大寺大仏殿に火を放って、ここを本営にしていた三好三人衆を破って地歩を固めます。

信長は、その桁違いにワルな男に好感を持っていたのではないかと思われます。

というのは、元亀三年(1572)将軍・義昭が武田信玄らと信長包囲網を形づくり、弾正もこれに加わったときのこと。

信玄が途中で倒れてこの計画は潰されてしまいますが、弾正は多聞山城(奈良市)と名刀・薬研藤四郎を取られただけでした。

多聞山城は、弾正が五年の歳月と莫大な金をかけて築いた、日本で初めて鉄砲攻撃に備えた新しいタイプの城郭であり、後に安土城の手本にもなっています。

信長は、弾正を石山本願寺攻略の駒として使う肚づもりでもあったのだろうが、あの苛酷な信長が罪を問わないで済ませます。

その理由が、弾正という男に自分と同質のえげつなさや、悪辣な個性を見ていたからだと思われます。

そうでなければ、信長は弾正の首を斬っているはずなのです。

天正四年(1576)になると、信長は本願寺攻略に取り掛かり、弾正も信長幕下にあってこれに加わります。

ところが、翌年の天正五年八月、合戦の最中に、弾正は突然戦線を離脱して信貴山城に立てこもってしまいます。

弾正は、機会を伺っていたのです。

越後の上杉謙信が信長を潰すために上洛するという情報があり、弾正はそれに呼応すべく、既に信貴山城に三年分の兵糧を蓄えて本願寺とも気脈を通じていました。

今度こそは、信長も激怒。

嫡子・信忠、羽柴秀吉ら二万三千の軍で、信貴山城を包囲させ、攻撃は二昼夜に亘って続きました。

弾正は、八千の兵と共に徹底抗戦したが、これで最後だと見極めをつけるとそこで自害してしまいます。

弾正は、茶人・武野紹鴎下で千利休とは兄弟弟子であり、茶の湯においてもそれなりの文化人でした。

弾正が持っている「平蜘蛛の釜」を、信長が望んだという話も有名です。

その釜を渡せば命を助けるといわれたが、弾正は釜と自らの身体とを鎖で固く結びつけ、

「この釜と白髪首を信長ばらに渡してたまるか」

といい、仕掛けた火薬で粉微塵に釜もろとも爆死したともいわれています。

まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

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