戦国時代4選【北条早雲/毛利元就/武田信玄/山本勘助】 ~実力者がのし上がる「下克上」が盛んだった戦国時代最強は誰だ!~

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力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

目的のためには手段を選ばない「戦国のさきがけ」北条 早雲(ほうじょう そううん)」

早雲が初めて歴史に登場するのは、妹の北川殿が駿河の守護・今川義忠に嫁いでいた縁で、駿河に流れてきたというあたりからです。

そして、今川家の後継者争いに介入して今川義忠亡きあと、妹の子である龍王丸に家督を継がせることに成功。

その後、この功績に対して興国寺城(沼津市)が与えられます。

このとき、早雲は五十五歳でした。

その後、まもなくして伊豆の堀越御所の足利政知が病没すると、正室の子・茶々丸と後室の生んだ子の間に内乱が起こります。

茶々丸は、後室とその子二人を討つ。

ところがその後、公方を称した茶々丸が非道を繰り返して伊豆の人心は混乱し、この様子を早雲は湯治を装いながら間者から情報を入手して、秘かにうかがっていました。

そして早雲は、一気に堀越御所を攻め立て、茶々丸を討って伊豆国を占領。

伊豆国では関東管領・山内上杉家と、同じく関東管領の扇谷上杉家とが絶えず抗争を繰り返していました。

おそらく、山内上杉と対立する扇谷上杉の助けも得たのでしょう。

両者の対立をうまく利用したわけで、まさに綿密な情報収集と機を見るに敏な早雲の大勝利となりました。

こうした早雲の行動は、守護大名として将軍家に絶対的な忠節を誓っていた今川氏とは本質的に異なり、新しい形の戦国大名が現れたことを意味していました。

さらに早雲は、単に一国一城の主に収まらず、関東を制覇しようという遠大な構想をもっていました。

当時、小田原を支配していた大森氏に近づいて贈り物などで信用させておき、頃合いを見計らって一気に小田原城も奪い取ったのです。

戦国大名と呼ばれるためには、ただ戦争に強いだけでは不十分でした。

その意味で、早雲は民政でも優れた手腕を発揮し、「五公五民」であった当時の税率を「四公六民」とし、減税を行います。

早雲を語る上でよく知られる言葉に「針をも蔵に積むべきほどの人」(連歌師・柴屋軒宗長)と、「武辺者につかう事は、玉をも砕つべう見えたる仁」(越前大名・朝倉教景)があります。

前者は倹約家だということであり、後者は戦時ともなれば大切なものでも思い切って犠牲にすることを厭わないということで、早雲の優れた経済感覚をあらわしています。

また、早雲は後継者や家臣に家訓を残しました。

「早雲寺殿二十一箇条」がそれで、日常の細かい注意事項から人生観、宗教観や出仕の心得などが記されています。

その用意周到さと、北条氏の後の繁栄を確信して、子孫が関東制覇の夢を実現するように采配したことは驚嘆に値することです。

知略を最強の武器とした戦国武将「毛利 元就(もうり もとなり)」

四万石に満たない地頭職から、一代で山陰・山陽の十か国と豊後伊予の一部を領する大大名へと勢力を広げた毛利元就を解くキーワードは「知略」にあります。

天文二十年(1551年)大内義隆の筆頭家老だった陶晴賢が、反旗をひるがえして義隆父子を討ちます。

当時、安芸半国を治めるほどの力しかなかった元就は、しばらく晴賢との衝突を避けていたが、三年後の天文二十三年、決戦に踏み切ります。

それが、厳島の戦いである。

とはいえ、力の差は歴然としていました。

晴賢軍は、毛利軍より二万以上も多い軍勢で、決戦に臨んでくるに違いない。

したがって、野戦は滅亡を意味する。

しかし、厳島にその大軍を上陸させ水軍で包囲すれば、勝算はたつ。

晴賢軍を厳島に誘い込むために、元就は内部分裂を画策します。

晴賢軍の柱のひとつである江良信俊という知将を陥れるために、毛利家に入り込んでいる晴賢方の間者を利用して、江良がしたためたというニセの起請文をその間者に見せて江良反逆を晴賢に通報させたのです。

江良に不運だったのは、彼が晴賢に元就との和睦を丁度勧めていたことでした。

そうでなければ、晴賢もデマと一笑に付しただろうが、信俊は晴賢の手にかかって果てたのであります。

これで、晴賢軍の一翼が崩れた。

次に元就は、陶方の城将二人を捕えて、その一人・毛利与三は晴賢のもとへ返し、もう一人の新里宮内は厚遇して厳島・官尾城の城将に任命。

そのあとに、毛利与三のもとへ新里からの書状が届くのです。

そこには「陶氏は大内家代々の重臣であるのに、大恩を忘れて義隆父子を殺害した大悪人であるゆえ、そこもとも元就側につくとよい」と記されていました。

与三は、二心がない証拠に、この書状を晴賢に見せます。

晴賢は激怒し「きっと厳島へ渡って新里を討ちとる」と豪語したという。

さらに元就は、噂話を広めます。

「厳島を占拠されれば、毛利方は手足をもがれたも同然で、元就はじめ多くの重臣がそのことを危惧している」という噂話です。

このように巧妙な計略にかかり、ついに晴賢は二万七千の大軍を厳島へ渡海させてしまいます。

元就は、ここぞとばかりに小早川隆景の水軍と日本最大の村上水軍に厳島を包囲させ、晴賢を討ち取りました。

このとき、毛利軍は僅か三千であったといいます。

その後、元就は尼子氏をも攻め滅ぼして、中国地方全土を支配下におきました。

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山の民と海の民を率いた男「武田 信玄(たけだ しんげん)」

武田信玄は、市を保護して街道を整備し、運輸のための伝馬役を置きます。

また、領内の全関所を通る商人に関銭を課税し、塩釜役を設けて撰銭を禁じました。

撰銭を禁じたというのは、流通していた銅銭の標準価を定め、打歩をつけて悪銭でもみだりに排除することを禁止した政令であり、グレシャムの法則に対する対応でした。

このように、信玄は国の生産性を高め、流通機構を合理化して税制も整えるなど、統治者として細心に経済政策を打ち出していきます。

しかし、戦争はすさまじい消耗である。

農業経済だけでは、到底これを支えることができません。

そこで出てくるのが金山の経営で、黒川(山梨県塩山市)、御座石(韮崎市)、保・黒桂・雨畑(南巨摩郡早川町)、湯之奥(南巨摩郡身延町)などの主要金鉱山のほか、信濃、駿河の占領地にも信玄は黄金を求めました。

これらの鉱山経営に直接あたったのが、大久保長安です。

長安は「甲州流」とよばれる先端的な坑道掘削法によって、黄金の算出量を飛躍的に増加させます。

これが、信玄に新しい収入源をもたらすことになります。

こうした鉱山採掘に従事した「山の民」は下層民に過ぎなかったが、知行を与えられて被官となり、財政担当の蔵前衆になる者もいたし、先の信玄堤の工事にも従事して、その技術力を大いに発揮。

それよりも、なにより重要な事は、彼ら「山の民」がダイレクトに「海の民」と結びついていたことです。

甲斐は、山狭の国である。

それは、国境線が明確だという点ではきわめて統治に便利であるが、同時に流通にはひどく不便だということであり、その閉鎖性ゆえ、経済的、文化的に宿命的な後進性を抱え込んでいなければなりません。

この閉寒状況に坑道を掘り進むように、信玄は風穴を打ち開きます。

それが、永禄十一年(1568)十二月の駿河侵攻です。

その年、四十八歳の信玄は今川氏真を放逐したが、それは信玄だけでなく甲斐の民全ての宿願でもありました。

それは、海でした。

信玄は、まず今川氏の水軍機構を丸ごと接収して、広大な制海権を確保。

そして、巨大な安宅船(快速軍艦)一艘を核とする52艘の軍船によって、強大な艦隊を編成します。

基地として、江尻(清水)のほかに用宗、遠州、相良などの港を整備しただけでなく、乗組員は課役を免除して徴集し、一部には「渡海(航海)の奉公」を義務づけて、塩釜役を免除したりして優遇につとめました。

ですが「山の信玄」が、やすやすと「海の武将たち」を支配できたものでしょうか。

「土の人」と「水の人」は、端的にいえば精神構造が全く異質。

しかし、信玄は対極的な両者を結びつけます。

彼らの精神構造の中枢に着目したのです。

金山衆・杣=「山の民」は、山岳信仰の世界に住んでいました。

平野部に定着する人々は、その「山の民」を危険で妖しい得体のしれない人種だと思っていました。

その代表的な存在が、山伏でした。

一方「海の民」である海賊はどうだったか。

彼らもまた、熊野信仰を古くから人生と精神の中心に据えていました。

北九州沿岸、瀬戸内海を制し、波濤万里を越えて中国、東南アジアにまで進出して交易と海賊行為を行ってきていた倭寇も「熊野信奉者」でした。

そのため、彼らは古くから山峡の情報に接し、金山衆や杣も遠い異国の情報に接していました。

情報は、平野部や主要街道ではなく「海」から山伏によって、尾根から尾根へと峻険なルートを伝って運ばれて「山」から迅速にフィードバックされていたと考えられます。

つまり、信玄幕下の「山の民」と「海の民」は、心のよりどころを同じくする者の集団だったのです。

こうして、信玄が組織した水軍の当面の目標は、北条氏でした。

信玄は、元亀元年(1570)に伊豆を攻めたが、このとき水軍は食糧や軍需物資を輸送して積極的に参加。

手はじめに軍事的、政治的な目的のために、水軍を利用したということです。

信玄の意図は、それだけに止まりませんでした。

たしかに、信玄が水軍を編成してから死ぬまでは僅か五年間であり、遠大な経済的目的を果たすには至らなかったでしょう。

だが、陸上で信玄が戦っているときに、水軍のスタッフが軍船を港に繋留して毎日昼寝していたとは考えられません。

仮に、大部分が陸における軍事行動に協力していたとしても、船を保守管理するクルー、最低限の兵は港や海にあったと考えるのが自然です。

正確な数字こそわからないが、そこでは日常の業務として交易、掠奪、運輸などに従事して、それなりの利益を信玄にもたらしていたと考えるのが、妥当というものです。

それは、武力の裏付けのある「海運商社・武田商事」であったと考えられます。

海という新しい財政基盤ができた信玄は、元亀三年(1572)十月、甲府を進発。

いうまでもなく、狙いは遠江、三河(静岡県、愛知県)を征圧して足元を固め、尾張に進出して、やがては京に武田の旗を打ち樹てることであったが、残念ながら六か月後の天正元年(1573)四月十二日に病没してしまいました。

「誉れ多き侍」と評された男の失敗とは「山本 勘助(やまもと かんすけ)」

永禄四年(1561)四月二十五日。

山本勘助は、数名の家臣と共に川中島へ向かった。

着くと、勘助は早速地形の調査を始めます。

その後、築城のため約五千人ともいわれる助勢の人夫、職人たちが集まった。

これらの人々の働きで、城は八十日で七月半ば過ぎには完成。

城からは、川中島の隅々まで見渡せた。

海津城(松代城)である。

築城の知らせに武田信玄が諏訪から駆けつけたほど、見事な出来栄えでした。

八月十六日。

いよいよ、上杉謙信が川中島へ侵入。

謙信は、海津城を横目に妻女山に布陣します。

二十九日、信玄は海津城に入ります。

四キロの距離を隔てて両者のにらみ合いが続き、九月に入った。

ここで、勘助は一つの戦法を信玄に提示します。

それは「啄木鳥の戦法」である。

まず、二万の軍のうち、一万二千を妻女山の謙信に向ける。

慌てた謙信は、山を下って退却。

そこへ、待っていた残りの兵で、討って出て挟み撃ちにする。

勘助が自信をもっていた作戦であったが、この策は失敗となります。

謙信がこの作戦を察知して、陣地をそのままにして山を下り、迂回して川中島に出て攻撃の陣を布いたからです。

つまり、信玄の陣地の前方僅か二キロの地点に、謙信は身を潜めていました。

謙信は前の晩、海津城から立ち上がる炊煙を見逃さなかったのです。

勘助は、作戦の失敗を恥じて水沢付近で討ち死にします。

勘助は若いころ、様々な城造りを見学して、築城の縄張りや工事の重要さを痛感していました。

しかし、渡り歩くうちに旅費が尽きてしまいます。

そんなとき、勘助は兵法の道場を訪ねて手合わせをし、草鞋銭をもらいます。

「落城しない城造り」を見せられた失業浪人たちからは、益々仕事先が減ると疎んじられます。

ある晩、勘助は寝泊りしていた小屋で、浪人たちから襲撃を受けます。

その時、一本の矢が左の太股に刺さり、この傷がもとで勘助は生涯左足を引きずるようになります。

足だけではない。

独眼で浅黒く、削げた頬、刀傷のある顔と身体、欠けた指。

天文十二年(1543)、勘助は老臣・板垣信方の推挙で、武田家から百貫の知行を与えられたが、今川義元は勘助のあまりの形相に、召し抱えるのをやめたとさえ伝えられています。

だが、その勘助を見て、信玄はこう言ったという。

「勘助は一眼、手傷を数か所負候へば、手足もちと不自由に見えたり、色くろう、かほどの無男にて、名高く聞こえたるは、能々誉れ多き侍と覚えたり」(「甲陽軍艦」)

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まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

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