【力こそが正義】実力者がのし上がる「下克上」が盛んだった「戦国時代」の人物4選  ~服部半蔵、柳生宗矩、徳川秀忠、藤堂高虎~

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力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

テクノクラートとして生きた忍者「服部 半蔵(はっとり はんぞう)」

天正十年(1582)六月二日、本能寺の変が勃発すると、当然のことながら家康の身にも危険が迫っていました。

光秀の手勢は、既に京の出入り口を押さえていました。

本国の三河へ無事に帰る為には、一刻の猶予もありません。

家康がとった作戦は、京都に行くと見せかけ、密かに伊賀越えのルートを通り、伊勢・白子から舟で岡崎へ帰城するというものでした。

この危機に際し、半蔵は伊賀・甲賀の者に力のある多羅尾光秀に協力を仰ぎ援助を求め、総勢三百余名の伊賀・甲賀衆が集結することになります。

一説によると、これら伊賀・甲賀衆は、ただ護衛をしただけで、先導を引き受けたのは京の豪商・茶屋四郎次郎(清延)であったといいます。

この「伊賀越え」の護衛以来、家康の頭には、大きく伊賀・甲賀者の存在がクローズアップされたに違いありません。

家康自身が、彼らを支配下に置いたのは、関東入国の後でした。

翌年、家康は駿・遠・三の三か国に加え、甲斐・信濃の五か国を領します。

ここに至って、伊賀・甲賀の二百名が忍者集団として活躍することになります。

この二百名は、与力三十騎と共に半蔵の支配下に組み込まれました。

半蔵はこの集団を率いて、数々の戦功を挙げました。

では、伊賀・甲賀の者達は「伊賀越え」のとき初めて登場したのでしょうか。

答えは「否」です。

家康の祖父・松平清康、父・広忠に、半蔵の父・保長が既に仕えており、この時の伊賀者の人数は五十名を超えたといわれています。

服部氏は、藤林・百地と並ぶ伊賀上忍三家の一つです。

半蔵の父・半三保長の代に、三河に移って松平家に仕えました。

弘治三年(1557)半蔵十七歳の時、三河西部・宇土城夜討ちに際し、忍びの者を率いたのが初陣といわれています。(「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)」)

半蔵は、家康の命を受け、伊賀者六、七十名を指揮し城内に火を放ちます。

その際、的確に風の向きを読んだのが、半蔵であったといわれています。

この混乱に乗じて、家康の軍勢が攻め込んで勝利をものにします。

家康は、半蔵に槍を与えました。

この日から、皮肉にも半蔵は忍者集団の影の大物になっていくのでした。

伊賀・甲賀の者達の主務は、敵の内部攪乱や情報収集にありました。

戦地での布陣、陣地造りにも力を発揮。

そればかりでなく、平素の時は道路建設、測量の面でも活躍。

半蔵は、一種のテクノクラートとして生きたのでした。

将軍に「政治の大要」を教えた剣聖「柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)」

元亀二年(1571)柳生宗矩は、剣聖と謳われた柳生新陰流を創案した石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねよし)の五男として柳生の里(奈良)に生まれます。

文禄三年(1594)五月、父・宗厳と共に、宗矩は京都郊外の芝竹村で徳川家康と会い、家康が宗厳に誓紙を入れ、兵法指南役として仕えるように願います。

この事から宗矩の運が開けますが、禄高は僅か百石に過ぎませんでした。

慶長五年(1600)七月、徳川家康の上杉景勝攻めに、宗矩もまた従軍しました。

そして、石田三成挙兵の報に家康は、宗矩に柳生谷の宗厳と筒井一族に石田方を牽制することを命じた書状を託します。

関ケ原の戦後、宗矩は旧領二千石を回復、将軍・秀忠の兵法指南役となります。

翌六年には、千石の加増がなされます。

大坂冬の陣では徳川の案内役を務め、夏の陣では秀忠の本陣で木村重成の一族を討ち取り、秀忠の危機を救います。

さらに、寛永六年(1629)新陰流印可書を献上し、従五位下・但馬守に叙任されます。

当時の剣客が最高で四、五百石であったことを考えると、異例の待遇でした。

ある時、将軍・家光が観覧する御前試合がありました。

厩方(うまやかた)の文九郎という男が、馬上の試合で圧倒的な強さを誇っていました。

家光は、傍らに控えていた宗矩に、文九郎との一戦を命じます。

試合が開始されると、文九郎は迷わず宗矩に向かって突進。

受けて立つ宗矩は、文九郎ではなく、目の前に迫った馬の面に一撃を食らわせました。

すると、馬が怯み、文九郎は手綱に気をとられます。

宗矩は、その一瞬を見逃さず、文九郎を見事に一撃して宗矩は勝利者となりました。

その様子を見て、家光はいいました。

「なるほど真の達人とは虚実織り交ぜて戦うものよ」と。

そして後日、こう付け加えます。

「天下の政治の大要を但馬守に学んだ。」と。

寛永九年(1632)秀忠が没して家光政権になると、宗矩は総目付となり、新たに三千石を加増されます。

この役職は、諸大名及び、老職以下諸役人の監察と剣断(警察・裁判)を主な任務としていました。

また、将軍直訴の権利も持っていました。

これは、いわゆる幕府の諜報機関でした。

正保三年(1646)三月二十六日、宗矩は江戸・麻布日ヶ窪の屋敷で七十六歳で没します。

この宗矩を継いだのが長男・三厳で、別の名を柳生十兵衛と呼ばれました。

将軍の治世能力は如何に「徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)」

秀忠は身長158cm、筋肉の発達は優れ、戦国の武将として人並みの風格を備えていました。

その秀忠にとって、慶長五年(1600)の関ケ原の戦いは、まさに天下分け目の戦となります。

しかしここで、秀忠は大失態を演じたのです。

石田三成の挙兵を知った家康は、次男・秀康を上杉軍牽制のため宇都宮に留め、秀忠には三万八千の軍勢を与え、中山道経由で西上を命じます。

しかし、すべて順調に思われた戦いに、思わぬ伏兵が待っていました。

秀忠の行手に上田城、つまり真田昌幸・幸村父子が待ち構えていたのです。

この時、秀忠は二十二歳で、実戦の経験は殆どありませんでした。

相対する真田父子は、名だたる戦略家。

九月二日、信濃・佐久郡の小諸まで進んでいた秀忠は、上田城攻めを開始。

十五年前、徳川勢は上田城の真田勢から敗戦の屈辱を味わされていました。

当時、八歳の秀忠にその時の記憶があろうはずもないが、秀忠の耳にこんな噂が入ってきました。
「十五年前の敗戦に懲りて、徳川勢は上田城を素通りするらしい。」

秀忠を揺さぶるには十分なこの噂で、真田父子は大きな役目を果たします。

いうまでもなく、その役目とはただ一つ、挑発して時間を稼ぎ、徳川勢を上田城に引きつけておくことでした。

江戸へ資金の調達に出かけていた本多正信が戻った時は、既に上田で取り返しのつかない事態になっていました。

結局、上田城の攻略は諦め、八日に西上の途につきます。

秀忠が東軍の勝利を知ったのは十七日、家康に合流できたのは二十日でした。

既に、十五日に勝利を収めていた家康が激怒したことはいうまでもありません。

しかし、秀忠が戦列に加わることができなかったこの勝利が生み出したものは、計り知れません。

それは、前途を大いに嘱望された悲運の若武者の既に死亡した長男・信康でも、天性の武人である次男・秀康でもなく、この戦で殊勲を立てた四男・忠吉でもなく、二代将軍が三男・秀忠に決定したからです。

関ケ原の勝利の日から、家康にとって徳川政権の確立こそが目標になります。

知略武勇の点では確かに他の兄弟には劣りますが、治世能力では秀忠が優れていました。

そして、何より家康に忠実でした。

従って、秀忠将軍誕生は、将軍職が徳川家世襲のものであることを天下に、そして大坂方・豊臣家に重い事実として知らしめたことでした。

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君主を七人変えた変わり身の早い大名「藤堂 高虎(とうどう たかとら)」

藤堂高虎は、弘治二年(1556)近江国(滋賀県)浅井郡藤堂郷で、浅井家の家臣・虎高の次男として生まれます。

高虎が十三歳の時、罪を犯した者が逃走し、藤堂家に飛び込んできたことがありました。

高虎の父と兄が、この男を取り押さえようとしますが、中々上手くいきません。

そこで高虎は物陰に隠れ、相手が隙を見て逃げ出そうとした瞬間、機敏に飛び出して討ち取ったといいます。

初めに浅井長政に仕えていた高虎は、以後、磯野員昌(かずまさ)、織田延澄と主君を転々とし、やがて秀吉の弟・羽柴秀長に仕えます。

ここで、二万石を授かり、ようやく安定したかに見えたが、秀長が天正十九年(1591)に死亡すると、今度はその養子・秀俊に仕えました。

その秀俊も数年後に亡くなり、高虎は高野山に隠遁(いんとん)してしまいます。

その後、すぐ秀吉の招きに応じ、伊予(愛媛県)八万石の領主となります。

驚くべき変わり身の早さでした。

後に仕える家康まで数えると、実に七人の主君に仕えたことになります。

慶長五年(1600)石田三成の挙兵を知った家康は、上杉景勝討伐の兵をすぐ返したものの江戸を一向に動こうとしません。

この家康江戸待機を勧めたのは、他ならぬ高虎でした。

さらに高虎は、清州城から諸大名の動きを逐一家康に報告。

承知の通り、この戦いは小早川秀秋の寝返りが東軍の勝利をもたらしたのですが、一番隊の福島正則に属して戦っていた高虎による裏工作の勝利でもありました。

そして遂に、高虎は関ケ原の功績により、八万石から伊予半国・二十二万石の大名となります。

この勝利で、家康は征夷大将軍に任ぜられ、威光を示す為に江戸城の修築を行います。

ここでも、高虎は遺憾なく力を発揮。

高虎は地選、縄張り、普請、作業の全てに通じていました。

高虎が宇和島城を築いた時のことですが、いかにも高虎らしいエピソードがあります。

完成した城郭が一見四角形、実は不等辺五角形なのです。

これは、敵に包囲されたときに残る一辺の方向から血路を開くという、実に巧妙な地取りの結果だそう。

こうした城の縄張りの才能をもって、高虎は駿府城、名古屋城、宇和島城、江戸城の普請奉行を勤め上げました。

寛永七年(1630)高虎が七十五歳の最期を迎えようとしていた時、家光が見舞いに訪れ、

「死後も話をしたいが、宗派が違うので無理だろう。」

というと、その場で居合わせた天海僧正に、天台宗への改宗を申し出たといいます。

まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。 この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。 今回は...

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