力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。
この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。
今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。
八丈島へ流された大名の心境「宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)」
関ケ原の戦いで西軍の副将格として奮戦しますが、敗れて、絶海の孤島・八丈島へ流された宇喜多秀家(岡山城主・五十七万四千石)は、その地で五十年を暮らしました。
八丈島へ流される三年前の慶長五年(1600)九月、秀家は西軍の中でも最も多い一万七千の大軍を引き連れて関ケ原に布陣。
秀吉の「秀」を賜るなど、豊臣恩顧の大名の一人であった秀家が五大老に列したのは、二十七歳の時でした。
所領石高も、前田利家の七十万石に次ぐ五十七万石であったことからも、我が子秀頼の行く末を案じる秀吉が秀家に寄せた期待と信頼の厚さを知ることができます。
加藤清正や福島正則などの豊臣恩顧の大名は、石田三成との確執から東軍に与しましたが、秀家は事もなげに西軍に加わります。
勝敗は時の運とはいえ、東軍に与すれば勝利して関ケ原後も大大名として君臨できるはずでした。
信義に厚く清廉な性格が、その決断をさせなかったということでしょう。
秀家の戦いぶりは、まさに獅子奮迅というべきものでした。
先鋒隊であり豪勇をもってなる福島勢を中心とした東軍を、幾度か窮地に追い込みます。
死に物狂いで東軍十万と激突したのは、この宇喜多勢と石田、小西、大谷などの軍勢、僅か四万ほどに過ぎませんでした。
白兵戦は、高みで傍観していた小早川秀秋の寝返りによって終りを告げます。
敗軍の将として関ケ原を脱出し、山中を彷徨い歩く秀家の元には、一万七千のうち僅か三名の従者しか残っていませんでした。
秀家は、海路、薩摩の島津家に身を寄せますが、島津が徳川と和議を結んだのを機に、家康の元へと出頭。
秀家の正室は、加賀の太守・前田利家の娘・豪姫でした。
その兄で、前田家の当主となっていた利長と、島津家の助命嘆願により死一等を減じられた秀家は、久能山に幽閉後、十九歳と九歳になる息子、十一名の従者と共に八丈島に流されます。
それは、慶長十一年(1606)のことでした。
一生の半分以上を八丈島で過ごした秀家ですが、二人の息子は島の娘と結婚し、宇喜多家の血筋は受け継がれました。
孤島に赦免状が届いたのは、二百五十年以上過ぎた明治維新後のことです。
「尻蛍大名」の決意とは「京極 高次(きょうごく たかつぐ)」
京極家は、高次の祖父の代に近江を家臣の浅井家に奪われた為、元亀元年(1570)八歳になった高次は、信長の元へ人質として送られます。
そして、天正元年(1573)浅井氏の滅亡後、高次は旧臣を集めて信長に仕え、五千石を与えられます。
天正十年(1582)六月、本能寺の変が起きると、高次は明智光秀に呼応して豊臣秀吉の所領であった長浜城を攻撃し、京極家の再興を図ります。
しかし、光秀が敗死し、翌年、越前の柴田勝家が秀吉に倒されると、今度は若狭の武田元明の元へというように、転々と逃げ隠れする生活を送ることになります。
元明の所には、高次の妹・龍子が嫁いでいました。
しかし、その元明も秀吉に倒されると、高次はあたかも自分の命と引き替えるかのように、龍子を秀吉の側室として差し出して許されます。
龍子は、淀君とは従姉妹同士であったことも幸いし、後に松の丸殿となります。
さらに高次は、二年後に近江・高島郡に二千五百石を与えられ、文禄四年(1595)には大津六万石の城主となり、京極家再興の夢が叶ったのでした。
それもこれも元はといえば、妹のお陰であったから、高次はバカにされて「尻蛍大名」というあだ名をつけられました。
秀吉の死後は、徳川家に接近します。
高次の妻が、浅井長政の二女・はつで、徳川秀忠の室・小督(おごう)の方の姉にあたるからで、そのことが慶長五年(1600)天下分け目の関ケ原の戦いに思わぬ影響を及ぼすことになります。
関ケ原の戦いの前日、九月十四日の夜、大津城・本丸の一室で開城か抗戦かの会議が行われました。
攻めるは大将・毛利元康、副大将・毛利秀包(ひでかね)以下、宗義智、立花宗茂ら総勢一万五千の大軍でした。
当然、家臣一同は和睦開城を望みましたが、高次は首を縦には振りませんでした。
高次は初め西軍に属し、北陸征討軍に加わっていましたが、九月三日、大津に帰って密書を家康の直臣・井伊直政に送って、西軍を大津に引きつけることを告げていたのです。
既に、六月十八日大津に宿泊した時、家康は高次と密約を交わし、七月二十二日付の家康への書状には、石田三成の動きなどを報告していることを考えあわせると、予定の行動であったと考えられます。
十三日早朝、西軍は城中へ突入。
防戦空しく、十四日に大津城は開城。
高次は翌十五日、髪を剃って高野山へ敗走します。
しかし、援兵も無いまま大軍を引きつけた功績を評価され、家康に召し出されて若狭小浜八万五千石を与えられました。
信仰に生き、国外追放されたキリシタン武将「高山 右近(たかやま うこん)」
高山右近は、キリシタン武将の中で最も敬虔(けいけん)な信者でした。
天正九年(1581)右近の領地である摂津高槻には二十の教会が建てられており、領民二万五千の内、一万八千人が信者になっていました。
これは、右近の影響の大きさを物語る数でした。
右近のキリシタン武将としての人生は、波乱に富んだものでした。
天正六年(1578)には、摂津有岡城主・荒木村重が信長に謀反を起こし、荒木方の右近は信長に寝返りを強要されます。
その見返りは、宣教師の生命でした。
信長は、全ての宣教師を磔(はりつけ)にして、さらに高槻領内のキリシタンを皆殺しにすると告げます。
悪い事に、右近の父・飛騨守が荒木側につくという事態になり、肉親と信仰の板挟みになります。
この父も、信仰心の強い信者でした。
右近父子は、領内の貧しい信者が死んだ時は司祭役を務めたり、棺を二人で担いだり、墓の穴掘りまでやっていました。
結局、右近は髪を下ろし、領主の地位を父に返上して信長につきます。
また、天正十五年(1587)豊臣秀吉が発令したキリシタン禁令によって領地を没収され、追放されましたが、この時もまた、右近は屈することがありませんでした。
右近に同情した前田利家が、三万石を与えて客将として迎えるといったとき、右近は自分のことよりまず教会を建てて欲しいと申し出ます。
慶長十八年(1613)には、徳川家康もキリシタン禁教令を発令したので翌十九年一月、右近とその家族は金沢を発って、京都、大坂、長崎へと再び追放。
この時、大坂城攻略を間近に控えていた家康は、右近の処置に迷っていました。
もし、国内で右近の命を奪うと、キリシタン達はまず間違いなく大坂側として蜂起するはずであり、大名の中にもこれに追随する者が出るかもしれない。
それだけは避けなければならない。
家康は、右近を国外追放することにします。
右近が長崎からマニラへ赴くと、ルソン総督や市民の熱烈な歓迎が待っていました。
しかし、当時六十三歳の右近には、長い船旅は堪えていました。
上陸後、僅か四十日で息を引き取ります。
熱病でしたが、右近の死は遠くローマにまで知らされました。
ただし、その遺骨は、十八世紀のイエズス会の解散や、第二次世界大戦のために失われてしまいました。
秀吉と家康との狭間に翻弄された生涯「豊臣 秀頼(とよとみ ひでより)」
関ケ原の合戦後の秀頼は、六十五万七千石を領する一大名に落ちぶれていました。
しかし、家康は気を抜きません。
秀頼は、秀吉から相続した莫大な財産である金銀を所有していたからです。
その財力を使って兵力を増強し、家康を倒しに来るという可能性が充分に想定できました。
そこで家康は、この金銀を秀頼に使い果たさせる策を練ります。
秀吉の菩提(ぼだい)を弔う為には、社寺の造営が何よりだと説得する家康に、まんまと乗せられた秀頼母子は、方広寺・大仏殿、醍醐寺・三宝院金堂、東寺・南大門、相国寺・法堂など、秀吉の遺産を湯水のように消費し始めます。
慶長八年(1603)家康は、征夷大将軍に任じられます。
その二年後、将軍職を突然、息子の秀忠に譲ります。
自ら「大御所」となって、将軍職を徳川家の世襲制にしてしまったのです。
こうして、秀頼の出る幕は無くなり、裏切られた淀君・秀頼母子が家康と対立したままの状態で時は過ぎ、慶長十九年(1614)になると、まさに一触即発の状態にまで悪化。
方広寺の大仏の開眼供養を前にして、その釣鐘の銘に家康がクレームをつけたのです。
常に、母・淀君から家康への悪感情を植えつけられて育った秀頼は、密かに豊臣恩顧の大名に同盟の誘いをかけはじめます。
しかし、時はとうに流れてしまっていました。
加藤清正、浅野幸長などの勇将達が相次いで他界したうえ、伊達・鍋島・前田を始め、秀頼に忠誠を誓う大名は殆どいなかったのです。
それでも何とか、秀頼の元に集まったのは真田幸村、長宗我部盛親、後藤又兵衛、仙石秀範などの優秀な武将と、食い詰めの浪人達でした。
秀頼は同年十一月、この軍勢で大坂冬の陣を断行。
堅城・大坂城を頼りに戦った豊臣勢は流石に手強く、東軍の損害は三万から四万にも及びました。
結局は、狡猾な家康によって講和に持ち込まれましたが、二の丸、三の丸の濠を埋められ、本丸だけの裸城にされてしまいました。
その後、家康は大坂城に十五万の兵で迫りました。
これが夏の陣です。
秀頼の兵の三倍にも上る軍勢には到底かなわず、激戦の末に大坂城は炎に包まれました。
秀頼と淀君母子は、追い詰められた挙句自害して果てました。
秀頼の遺体は発見されていません。
まとめ
いかがでしたか。
「力こそが正義」
動乱の時代だった戦国時代。
守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。
裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。
様々な敵に翻弄される現代。
この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。