「戦国時代」伝説の有名人図鑑4選【前田玄以/長宗我部元親/立花宗茂/小早川隆景】 ~武将たちが命を懸けて天下統一を夢見た「戦国時代」の逸話や出来事とは?~

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力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。

この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。

今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。

後陽成天皇の聚楽第行幸を仕切った武将「前田 玄以(まえだ げんい)」

信長の仇討ちを果たし、着々と諸大名を服従させていった秀吉は、天下統一に向かって一路邁進します。

関白就任後、長期に渡って停戦状態にあった家康を臣下とすることに成功し、大政大臣となって後陽成天皇から豊臣の姓を受けます。

関白の政庁である聚楽第に、まだ即位して間もない後陽成天皇を招いたのは、天正十六年(1588)のことです。

後陽成天皇は、秀吉や家康の協力のもと、戦国乱世以後における皇室の権威回復に努めた人物ですが、天皇の権力を一つの政治手段と考えていた秀吉は、天皇の面前で諸大名に秀吉への忠誠を誓わせたのでした。

この聚楽第行幸の一切の儀式を奉行したのが、前田玄以です。

天正十三年(1585)玄以は五万石を与えられ、丹波・亀山城主となります。

大名達が、皇室への尊崇と秀吉への服従を誓わされたという聚楽第は、代表的な桃山建築として知られています。

城郭風の大邸宅である聚楽第は、天正十五年(1587)に完成。

秀吉は、これを天正十九年(1591)関白の職と共に養子の秀次に譲りますが、文禄四年(1595)の秀次切腹の後は、この見事な建物を壊し、隠居所である伏見城に移築します。

一部が現在、西本願寺の飛雲閣(国宝・世界遺産)や大徳寺の唐門として遣されていますが「聚楽第図屏風」や「洛中洛外図屏風」には、塀を巡らした広大な敷地内に多くの屋敷や庭園が描かれ、豪壮華麗な城館の様子を伺うことができます。

慶長三年(1598)豊臣五奉行の一員となった玄以は、公家や寺院を担当。

秀吉に続き、五大老の一人である前田利家が没すると、それまでの勢力のバランスが崩れ、たちまち豊臣政権は内紛状態に陥ります。

五大老筆頭の家康と、五奉行の実力者石田三成との対立が深まり、慶長五年(1600)関ケ原で天下分け目の戦が行われます。

玄以は、表向きは三成側に寄与して西軍に属しましたが、次男・茂勝を細川幽斎の籠る田辺城への攻撃に加担させる一方、会津征伐に東下中の家康に通じて三成挙兵をいち早く報せました。

戦後、その内通の功によって家康から領地の所有を保証されますが、慶長七年(1602)江戸幕府が開かれる前に病気でこの世を去り、京都妙心寺の蟠桃院に葬られました。

秀吉に重用され、京都の奉行として活躍した玄以は、有識の誉れが高く、聚楽第行幸を取り仕切ったことに生涯誇りをもっていたそうです。

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一領具足の農民軍を率いた男「長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)」

普通なら十五、十六歳で初陣といわれていた時代ですが、元親の初陣は、二十二歳のときまで待たなければならなりませんでした。

その相手は、本山茂辰。

本山氏は、元親の祖父・兼序の仇でした。

茂辰の兵二千に対し、元親は僅か一千。

初陣を前に、元親は家臣にこう尋ねたという。

「大将は兵の先を走ったら良いのか、それとも後ろを走ったら良いのか。」(「元親記」「長元物語」)

さらに「槍は一体どう使えば良いのか。」と。

これに対し、家臣は「敵の目を突け」と答えたという。

だが、大方の予想に反し、元親は五十騎の精鋭を引き連れ、果敢にもいきなり切りかかってきた敵兵二騎を、自らの槍で突き上げたといいます。

さらに、大勢の敵兵を前に怯んだ味方に対し「退くな者ども!」と声をかけ、たちまちのうちに敵兵を打ち破ります。

こうして長宗我部軍は勝利を手にし、この後、元親は一条家の二郡を除き土佐一国をほぼ手中に収めました。

問題は、残りの二郡でした。

折しも、一条家当主・兼定が、家中で人望のある家老を手討ちにするという事件が起き、元親はこの機会を捉えて打って出ます。

元親は、ただちに一条家の家臣を買収して兼定を隠居させ、嫡子に跡目を継がせることを図り、兼定を伊予(愛媛県)へ追放して弟の嫡子・吉房に自分の娘をめあわせて相続させました。

元親の次の目標は、四国全土の征服でした。

しかし、天正十三年(1585)六月、小牧・長久手の戦いを経て、徳川家康・織田信雄との和議がなった豊臣秀吉は、総勢十二万三千の征伐軍を四国に進発させてきます。

秀吉のプロフェッショナルな武士団に比べると、元親の主戦力は農民武士団でした。

「一領具足」と呼ばれたこの軍団は、日常田畑に出ている時、槍の柄に草鞋や兵糧を括って畦に立てておき、合戦となれば鍬を捨ててすぐさま槍を担いで出陣できる郷士団でした。

具足一領馬一匹で馳せ参じるため、この名が付いたのです。

結果、数と質共に勝る秀吉軍を前に、元親はなす術がありませんでした。

元親は、人質として三男・親忠を差し出し、秀吉に下ります。

翌年、元親は九州征伐に従軍し、嫡子・信親を失います。

帰国後、元親は病にかかり、慶長四年(1599)五月十九日伏見で没しています。

享年、六十一歳。

生前、嗣子に定めた四男・盛親は、関ケ原で西軍に味方して敗れ、大坂の陣で戦死してここに長宗我部氏は滅亡しました。

家康が拾った苦労人「立花 宗茂(たちばな むねしげ)」

天正十五年(1587)の九州征伐で、大友軍の先鋒隊としてある城を攻めた宗茂は、これ以上抵抗をせずに降伏開城するなら、城内の者の助命を願いでようと約束し、秀吉と談判します。

秀吉は、労をねぎらってにこやかに迎えましたが、助命の話には首を縦に振りませんでした。

宗茂も、ここで引き下がれば武士の名折れと食い下がり、しまいには助命がかなわないなら私を成敗して頂きたいと言い切ります。

秀吉はついに根負けし、敵の命を助けることを認めたといいます。

宗茂が、人生の岐路に立たされたのは、関ケ原の時です。

宗茂のついた西軍は惨敗し、立花軍は虚しく帰国の途につきました。

途中、立花軍は薩摩の島津義弘の軍と出くわします。

西軍についていた島津軍は、決死の敵中突破で脱出してきたのですが、千名の将兵が僅か八十余名に減っていました。

実は、この島津こそ、四年前に討ち死を遂げた宗茂の実父・高橋紹運の仇だったので、家臣達が

「いまこそ仇を討つ絶好の機会です。」

と囁きました。

しかし宗茂は

「窮地に陥っている者の足をすくうなど武士のすることではない。ましてや同じ西軍に与した同志ではないか。」

と叱り、島津義弘に使者を出し、

「遺恨はない、助け合いながら帰国を果たそう。」

と伝えます。

義弘は、この申し出に心から感謝しました。

その後、追撃した東軍に柳川城を取り囲まれます。

初めは徹底抗戦の構えを見せた宗茂でしたが、使者が朝鮮出兵で共に武勇を轟かせた同じ九州大名の加藤清正であったことと、宗茂と家臣たちの身の安全を保障してくれたことから、開城を決断。

開城の当日、城の外では、百五十人程の領民が宗茂主従を迎えました。

そして、筑後四郡の領民は、殿様の為なら命も惜しまないと涙ながらに開城を押しとどめたのです。

それに対し、宗茂は、

「気持ちは嬉しいが、皆を戦乱に巻き込みたくないがために城を出るのだ。わかってくれ。」

と答えました。

慶長七年(1602)宗茂は十八人の従者を引き連れ、預けられていた清正の元を後にして、京都近辺を流浪します。

その日の食い扶持にも困る生活が続きました。

そんな宗茂主従を拾い上げたのは、徳川家康でした。

人柄の良さに感服した家康から奥州・棚倉一万石を賜り、その間、嫡男・秀忠の相談相手として呼び出されています。

元和六年(1620)に、思いがけなくも二代将軍となった秀忠から、旧領の柳川城主を命じられます。

宗茂は、奇蹟的なカムバックを遂げたのでした。

状況判断と予見が正確な大器「小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)」

秀吉は、結束の固い毛利勢に手こずり、備中・高松城を水攻めにするまでに五年を要しました。

この時の毛利家の当主は、隆景の長兄・隆元の敵男・輝元で、その甥を次兄・吉川元春と隆景とが補佐していました。

中でも隆景は、秀吉方との交渉役という重要な役目を担っていました。

兵糧が尽きても秀吉の懐柔を頑としてはねつけ、必死に持ちこたえていた清水宗治(城主)と城兵たちの命を助ける為、隆景は和睦策を打ち出します。

条件は備中・美作・伯耆三国の割譲。

秀吉が拒否すると、さらに二国を加えます。

一見、弱腰外交の様に思えますが、そうではありません。

隆景は、秀吉が大器だと見抜いていました。

その予測が、宗治らを助けたいという思いと交錯し、五国割譲という条件になりました。

そこに届いたのが、信長の死の報せです。

いち早く和睦を結びたい秀吉は、宗治の切腹を条件とし、宗治も毛利家が安泰であるならと応じます。

もはや隆景も、とどめることはできません。

宗治こそ忠臣であると、号泣したという。

毛利方が本能寺の変を知ったのは、和睦の翌日。

当然、秀吉軍を追撃する案が持ち上がります。

しかし、隆景は反対します。

確かに、追撃すれば打撃は与えられる。

しかし、秀吉を討ち取れるわけでもない。

それより、無傷で帰して、明智光秀と戦をさせるのが肝要だ。

もし、秀吉が天下をとれば、必ず毛利家に感謝するだろうと隆景は読みました。

その予測は、的中。

明智軍を撃破して天下を掌中に治めた秀吉は毛利家に感謝し、その後長く厚遇することになります。

わけても隆景は五大老のひとりに加え、何かと意見に耳を傾けました。

しかし、隆景は秀吉には気を許しませんでした。

なぜなら、秀吉の恐ろしさをよくわきまえていたからです。

子供のない輝元へ正室ねねの兄の息子・秀秋を養子に送る案を、秀吉が考えつきます。

それは、毛利家が豊臣家に牛耳られることを意味するばかりでなく、凡庸の秀秋によって毛利家の土台が揺らぐのは目に見えていました。

隆景は機先を制し、小早川家の養子に迎えたいと願い出ます。

毛利本家を守るには、小早川家を犠牲にするしかないと決断したのです。

死の床についた隆景は、輝元に「分をわきまえ野心を抱いてはならぬ」と言い遣します。

だが、輝元は関ケ原の戦いで西軍の総大将に祭り上げられ、敗戦の後に待ち受けていたのは大減封でした。

隆景の危惧は、またも的中したのでした。

まとめ

いかがでしたか。

「力こそが正義」

動乱の時代だった戦国時代。

守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。

裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。

様々な敵に翻弄される現代。

この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。

力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。 この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。 ...

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