【結成30周年】電気グルーヴについてご存知ですか?その歴史をまとめます ~DENKI GROOVE 石野卓球とピエール瀧の特異な存在感~

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電気グルーヴというバンドをご存知でしょうか。

最近では、メンバーのピエール瀧が、俳優として目覚ましい活躍を見せていますが、彼が在籍するバンドとして、その名を耳にした方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ただ、電気グルーヴのことを調べようとしても、なかなかその全体像を掴むことは難しいかと思います。

それほどまでに不思議なバンドなのです。

そこでここでは、簡単に電気グルーヴについてまとめていきたいと思います。

石野文敏と瀧正則の出会い

電気グルーヴの歴史を紐解くには、石野卓球とピエール瀧の出会いにまで、遡る必要があります。

彼らは高校時代に、友人の紹介で出会いました。

当時はもちろん「卓球」「ピエール」と名乗っていたわけではありません。

「石野文敏」「瀧正則」という静岡の高校生でした。

瀧少年が初めて石野少年の部屋を訪ね、そこである曲を聴かされます。

それは、NEW ORDERというバンドの代表曲BLUE MONDAYでした。

瀧少年は感動のあまり、その場で立ち尽くしたといいます。

ここからすべてが始まったのです。

前身バンド「人生」の結成

BLUE MONDAYに衝撃を受けた瀧少年は、石野少年の部屋に入り浸るようになります。

そこには、二人を中心として、様々な友人たちが出入りしていました。

そんな彼らはやがて「人生」というバンドを始めるのですが、かなり変わったバンドでした。

曲やライブのスタイルはもちろん、メンバーが固定していないなど、奇抜な点はたくさんありました。

そんな中でも最も奇抜だったのは、一切楽器を演奏できない瀧をメンバーに迎えた点だと言えるでしょう。

驚くべきは、この「楽器のできない瀧」という存在が、その後現在に至るまで電気グルーヴを形作る、最重要ポイントになっていることです。

その背景には、ジャーマンニューウェーブを経て、石野少年がたどり着いた独自の音楽観があります。

それは、「楽器を演奏することだけが音楽ではない」というものです。

この考え方はその後、電気グルーヴおよび、石野卓球の音楽活動を唯一無二のものにしていきました。

電気グルーヴの根幹は、この時点である意味完成していたと言えるのです。

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上京、そして電気グルーヴの結成

地元静岡で活動していた「人生」は、東京のレーベル「ナゴムレコード」の目に止まり、1986年にデビューをすることになります。

かつての石野少年は「石野卓球」として、瀧少年は「畳三郎」として、そのキャリアをスタートさせます。

それから時を絶たず、彼らは東京のアングラシーンで、一躍スターダムにのし上がります。

ちなみに、後に盟友となるスチャダラパーのBOSE、ANI、SHINCOは、当時すでに「人生」のステージを観客として見ていたそうです。

ただ、そうした活躍のさなかで卓球自身は、当時のバンドブームへの違和感や、ヒップホップの興隆への共感から、「人生」のバンド形態に限界を感じ始めていました。

やがて1989年、卓球と瀧はバンド「人生」を解散し、新たに「電気グルーヴ」をスタートさせるのです。

なお、瀧はこの時点で「ピエール瀧」を名乗るようになります。

メジャーデビュー

電気グルーヴは、当時まだ一般的ではなかったラップを楽曲に取り入れます。

かといって、ヒップホップをやろうとしたわけではありません。

むしろ、ジャーマンニューウェーブに影響された、独自の言語感覚を音楽にしようとした結果、方法論としてラップが最適だったということなのです。

その音楽性は他に類を見ないもので、注目を集めるのに時間はかかりませんでした。

1991年、電気グルーヴは新メンバーCMJKを加えてメジャーデビューを果たします。

その翌年には武道館ライブを実現したことからも、その破竹の勢いが分かります。

アルバム『FLASH PAPA』から『KARATEKA』まで

ファースト・アルバム『FLASH PAPA』は、マンチェスターでレコーディングされました。

ここからも、彼らに対するレコード会社の期待が伝わります。

ただ、卓球自身は冷静でした。

バンドとしての快進撃とは裏腹に、卓球独自の音楽観が周囲に伝わっていないと感じていたのです。

卓球は、自らやりたいこととレコード会社から求められることの間で、葛藤を深めていきます。

その結果、ラジオやテレビを含めて活動の幅を広げる中で、傍目には奇行と映る行動を繰り返すようになります。

ただそれは、バンドを売れさせようというレコード会社の要求と、新しい音楽をやりたいという自らの欲求を両立させるためにとった、ギリギリの戦略だったのだと思います。

この時期の難しい舵取りが、バンドの印象をよりわかりにくいものにしていきました。

なお、バンド自体は、CMJKと入れ替わりに新たにメンバーとなった砂原良徳(まりん)を加えて、さらに勢いを増していきました。

アルバム『VITAMIN』から『A』まで

電気グルーヴは、1993年末にアルバム『VITAMIN』をリリースします。

これは、控えめに言っても、日本の音楽シーンを変えたアルバムです。

現在ほどインターネットが盛んでなかった時代に、海外のアシッドテクノシーンと完全に同期した内容のアルバムを作ったのです。

ここから、電気グルーヴの新たな歴史が始まります。

日本のテクノシーンの成長と並走するように、新しい音楽を開拓していきました。

特に『虹』という曲は海外でもリリースされ、ジャパニーズテクノのアンセムとなりました。

そうした歩みは、1997年にリリースされたアルバム『A』に結実します。

まりん脱退、そして『VOXXX』

「楽器を弾けない瀧」という存在は、卓球の考える広義の音楽を体現する、もっともわかりやすいアイコンです。

その威力は、海外で特に発揮されました。

電気グルーヴは、ヨーロッパでも絶大な人気を獲得するようになります。

また、その時期からフジロックを始めとして勃興した様々なロックフェスでも、電気グルーヴは国内随一のライブアクトとして、名を馳せるようになっていきました。

そんな中、砂原良徳が電気グルーヴを脱退します。

そして瀧・卓球の2人体制で、『VOXXX』が制作されました。

このアルバムの内容は、非常に濃厚で壮絶なものでした。

その証拠に、この時期から電気グルーヴは、その活動をトーンダウンさせていきます。

2人体制での活動再開

瀧と卓球が、お互いにソロ活動を充実させていく中、2008年に電気グルーヴとしてアルバム『J-POP』をリリースします。

実に8年ぶりのアルバムでした。

この作品をきっかけに、電気グルーヴは再び活発に活動を始めます。

この作品以降の電気グルーヴについて特筆すべきは、歌詞の革新性です。

もともと電気グルーヴの歌詞は「おもしろい」「笑える」といった言葉で語られてきましたが、そんな次元をとっくに超えた言葉を聞かせてくれるようになりました。

ヒップホップ的な感覚とも一線を画した、非常に音楽的な言葉選びを見せてくれます。

その魅力は作品を重ねるにつれ増していき、最新作『TROPICAL LOVE』ではまったくの新境地を見せてくれました。

これからの電気グルーヴ

これだけのキャリアを持ったバンドが、今なおその魅力を更新し続けているのは驚異的なことです。

彼らのライブに足を運んでいる方なら、わかっていただけると思いますが、ライブに行くたびに新しい魅力を見せてくれます。

そんな彼らの今後が、本当に楽しみです。

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