力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。
この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。
今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。
見捨てられた男の悲劇「神戸 信孝(かんべ のぶたか)」
永禄元年(1558)二人の武将が誕生します。
一人は、織田信長の次男・信雄。
そしてもう一人が、三男・信孝。
一説によれば、信孝の方が二十日あまり早く生まれたにもかかわらず、信雄の母が正室の生駒だったのに比べ、信孝の母は側室・坂氏だった為、三男になったといわれています。
いずれにしても、二人の確執は、本能寺の変のあと一層深くなります。
永禄十一年(1568)のこと。
父・信長は、尾張を安全に保つために伊勢、特に北伊勢の制圧が必要でした。
しかし、予想以上に領主達、中でも関一族の神戸氏の抵抗が強く、信長は神戸氏の当主・神戸具盛に男子がいないことを幸いに、三男の三七(信孝)を養子に送り込み講和が結ばれます。
信長は、これを機会に実質上、北伊勢の神戸領を織田領にしようとします。
元亀元年(1570)正月、信長は具盛を隠居へ追い込みます。
具盛は、妻の実家である近江の蒲生氏のもとに幽閉。
と同時に、神戸家の粛清が行われました。
信孝は、天正二年(1574)長島一向一揆の戦いを手はじめに、数々の戦闘で軍功を上げます。
信孝にとって長兄・信忠は特別でも、問題はありませんでした。
ただし、信雄とは差別されたくありませんでした。
官位の面でも、信雄は従四位下左中将であったのに比べ、信孝は従五位下待従に過ぎなかったのでした。
天正十年(1582)六月二日、本能寺の変が勃発。
六月十三日、信孝は秀吉と摂津富田で落ち合うと、父の仇である光秀と戦います。
山崎の戦いです。
本来ならば、父の仇を討つ戦いであったのに、主導権は二万五千の兵を率いる秀吉にとられていました。
信孝がこの戦いに加わったことから、信長の後継者は信孝に落ち着くものと周囲も考えましたが、そうはなりませんでした。
六月二十七日の清州会議で決定した後継者は、信雄でも信孝でもなく、信忠の遺児・三法師だったのです。
天正十一年(1583)信孝はかねてから秀吉に不満を持っていた柴田勝家と共に、秀吉に反旗を翻します。
しかし、賤ケ岳の戦いで勝家が敗れると、信孝も遂に岐阜城を開城します。
したたかな秀吉は、自分の手を汚さずに信雄に命じて信孝を自刃に追い込みます。
二十六歳でした。
悲劇の凡人「織田 信勝(おだ のぶかつ)」
清州会議の末、信雄・信孝を飛び越えて、信忠の子・三法師(秀信)が織田の宗家を継ぐことに決定すると、信雄は本拠を清州城に移します。
この時の信雄の領地は、尾張・南伊勢・志摩と大和二郡の併せて百万石になっていました。
その後、信孝は岐阜城を囲まれた後に自害。
賤ケ岳の戦いで柴田勝家も自刃したから、全てが自分に都合よい結果となったと、信雄は思い込みます。
しかし、信雄は大きな過ちを犯していました。
なぜなら、秀吉の力を侮っていたのです。
秀吉は、信長の求めてやまなかった大坂に巨大な大坂城を築き、信雄には僅かな所領を加えたに過ぎませんでした。
また、秀吉は、信孝・勝家を滅ぼす為に信雄を利用します。
信孝を攻めるときにも、勝家に迫ったときも、信雄を戦の全面に押し出したのはその為でした。
ようやく、この事に気づいた信雄は、父・信長と固い盟友関係にあった徳川家康のもとへ駆け込んで、秀吉と天正十二年(1584)小牧・長久手の戦いをやることになります。
秀吉十万の兵に対し、信雄・家康の連合軍は、僅か一万七千でした。
長久手の戦いでは、秀吉の猛将・池田勝入、森武蔵らが討死して、流石の秀吉もこれにはうちしおれます。
ところが、三月に合戦が始まった同じ年の十一月、信雄は家康に黙って秀吉と講和を結びます。
秀吉はこの講和によって、同時に家康をも臣従させることに成功したのです。
この後の論功行賞で、秀吉は家康を関東八州に移し、信雄にその旧領地である三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国を与えようとします。
しかし、信雄が自分の旧領の伊勢・尾張にこだわって難色を示したため、秀吉は激怒して信雄の所領百二十万石の全てを剥奪し、その身柄は常陸の佐竹氏に預けられることになります。
秀吉の怒りを恐れた信雄は、その後各地に転々と居を移しました。
信雄は、信長時代の栄光の夢なお冷めやらぬまま、現状を把握できなかったのです。
それが、悲劇のもとでした。
所詮、父の様な大器ではなかったのです。
ここに、信雄の武将としての生命は終わり、剃髪して常真と称して文禄元年(1592)に家康の助けで、朝鮮出兵のため肥前・名護屋にいた秀吉に招かれ、罪を許されるまで浪々の身をかこつことになったのです。
信長を育てた男「池田 恒興(いけだ つねおき)」
恒興の母・養徳院は、夫・恒利が織田信秀に仕えていたことから、織田信長の乳母となった。
吉法師と呼ばれていた信長は、幼いことから癇が強く、何人もの乳母の乳首を噛み切ってしまいます。
ところが、この養徳院が乳母になると、その癇癖がすっかり止んでしまったといいます。
二年後に父・恒利が死去した後も、養徳院は引き続き信長に仕え、恒興(幼名・勝三郎)も織田家に仕えて、信長の遊び相手として成長します。
弘治三年(1557)信長の弟・信行は、岩倉城の織田信安と手を組んで反旗を翻します。
恒興は、信長の命令のまま、清州城に招かれた信行を謀殺します。
さらに、信行の妻をこれも信長の命に従って妻に迎えます。
このとき、恒興は弱冠二十歳で血気盛んながら、信長の命令には極めて忠実であったことがわかります。
恒興は、永禄三年(1560)の桶狭間の戦いをはじめ数々の戦功をたて、天正八年(1580)荒木村重の摂津花隈城攻略の戦功によって、同国有岡十万石を与えられます。
天正十年(1582)本能寺の変で信長が倒れると、六月十三日、恒興は山崎の合戦で、秀吉と共に明智光秀を討ちます。
以後、十一年の賤ケ岳の合戦、小牧・長久手の戦いにおいても、恒興は秀吉側について戦いました。
賤ケ岳の合戦の功によって、恒興は摂津から美濃・大垣城に移って、十三万石を領しています。
小牧・長久手における恒興は、秀吉対織田信勝と徳川家康という、どちらにも恩義のある微妙な立場に立たされます。
双方の誘いの軽重を慎重に比較し、恒興は秀吉について、犬山城を占領します。
恒興は、元助と家臣・伊木忠次を先手として、木曽川の対岸にある犬山城へ向かわせました。
元助と忠次は、鵜飼い船に乗って犬山城の背後に登って城を奪取。
狙いは、小牧山に陣をはる家康の背後をつくことであったが、この作戦は見破られます。
家康は、間者を通じ、かなり詳細な報告を受けていたのでした。
戦闘中、恒興は仏ヶ根の自陣を死守していたが、遂に力尽きて永井仁八郎に討たれます。
この戦いで、嫡男・元助、女婿・長可も馬上で討たれて戦死。
恒興四十九歳、元助二十六歳でした。
秀吉は恒興父子の死を悼み、養徳院へその戦功を称えた書状を送っています。
さらに、恒興の遺児・輝政に大垣城を与えました。
秀吉の作戦と飢えに敗れた武将「別所 長治(べっしょ ながはる)」
天正五年(1577)毛利制圧を目指す織田信長は、秀吉を総大将にして中国平定に乗り出します。
続いて翌六年には、中国攻めに取り掛かり、地理に通じた別所氏に先鋒が命じられます。
長治は、十二歳で家名を継いだとはいえ家長としての力はなく、その後ろで糸を引いていたのは叔父の三木賀相でした。
この賀相は、心の底から「たかが草履とり」と秀吉を蔑んでいました。
秀吉が、播州攻略の総司令に任じられても、その先入観が変わることはありませんでした。
賀相には、秀吉の下で戦うことなど、考えられなかったのです。
二月二十三日、加古川城で会議が開かれ、別所側からは賀相と老臣三宅治忠が参陣。
三木城に戻った賀相は、秀吉の傲慢さなどを説いて、長治もその意見に同意。
反旗を翻した三木城を、秀吉は真綿で首を絞めるように、じっくり年月をかけて攻めます。
城には、七千五百の将兵が立って籠っていました。
そこで秀吉が行ったのが、得意の兵糧攻めでした。
秀吉はまず、周囲の支城を一つ一つ落とし、精神的にも追い込んでいきました。
三木城と明石の魚住を結ぶ線上に、五十~六十の砦を築き、その間に番屋を築きました。
さらに、城の周囲の陣は毛利の動きを封じ、三木城を完全に孤立させました。
籠城一年目、食料の貯えも底をついた天正七年(1579)二月、二千五百の城兵が一丸となって城外へ突出して秀吉の本陣を突きます。
しかし、結果は敗北。
かえって八百余の将兵を失い、残った兵は逃げ帰って門を閉ざします。
同年九月、毛利氏は軍船を仕立てて、三木城救助の兵糧輸送作戦を展開したものの、秀吉軍にその輸送路も断ち切られます。
城内には、もはや一粒の米も無くなっていました。
ネズミ、馬、草木、口に入るものは全て食べた。
やがてはそれも乏しくなり、兵達は戦闘能力を失い長治は開城を決意。
長治・友之・賀相の三人が切腹することを条件に、長治はこう言いました。
「されば、城内の士卒の命を助けてくださらば、長治今生の悦びであります」
秀吉はこの条件をのんで、残兵を助けることを承知。
長治は早朝に起きて行水し、焼香を済ませて三歳の幼児と夫人を刺し殺し、賀相の夫人と三人の子女が殺されました。
その後、友之と左右に分かれて座り、長治は切腹しました。
まとめ
いかがでしたか。
「力こそが正義」
動乱の時代だった戦国時代。
守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。
裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。
様々な敵に翻弄される現代。
この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。