力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。
この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。
今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。
豊臣家を捨て家康について忠義の人「片桐 且元(かたぎり かつもと)」
慶長十六年(1611)三月、駿府から上洛した家康は、秀頼に「上洛」を命じます。
指定された場所は二条城でした。
これを聞いた淀君は激怒します。
淀君は、家康は豊臣家の臣下であると考えていたからです。
会いたければ、家康が秀頼の元に出向くべきだと。
この家康と秀頼・淀君の争いの間に、一人の男がいました。
それは、片桐且元です。
且元は、秀吉に幼少の頃から仕えた秀吉子飼いの一人であり、賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の一人でもありました。
「二条城に行けば殺される」と秀頼の二条城行きを反対する者も多く、且元は占い師・白井龍伯に占わせます。
「凶」
それが占いの答えでした。
且元は、もしここで秀頼が行かねば、関東との不和がより深くなり、異心のないことを示さなければ戦いは収まらないと、その占いの結果を「吉」と書き直させます。
小手先の策ではありましたが、且元は淀君の説得に全力を挙げて当たりました。
秀頼に何かあったら自分も死ぬという且元の覚悟の元に、三月二十八日、晴れて家康と秀頼は二条城で会見しました。
しかし、さらに難問が起こります。
方広寺・大仏殿の再建を、且元が奉行となって進めた梵鐘の銘の中に「国家安康」「君臣豊楽」と家康の名を分断する不吉な文字があって、家康を呪詛(じゅそ)し豊臣家の安泰を願うものだと、いいがかりがつけられたのでした。
鐘銘の起草者である京都・東福寺の清韓文英を伴って弁明に出かけた且元に、家康は決して会おうとしませんでした。
淀君は且元とは別に、淀君の乳母であり大野修理治長の母である大蔵卿局と正栄尼を、駿府に向かわせます。
家康は、且元に対する態度とは打って変わって、二人を温かくもてなします。
そうとは知らぬ且元は、家康の内意として次の条件を示しました。
秀頼か淀君が人質として江戸に下向するか、大坂城を明け渡すか、この件を承諾しなければ問題の解決はないと報告したのです。
大蔵卿局は、自ら家康から聞いた内容とあまりにも違う為、且元が家康の手先ではないかという疑いを抱き、人々の疑惑の目は一斉に且元に注がれました。
身の危険を感じた且元は、武装し大坂城を退去。
この時から、且元は心身共に秀頼、そして淀君と訣別。
且元は夏の陣では、秀頼と淀君の隠れている山里曲輪の糒(ほしいい)蔵の場所を家康に告げます。
銃撃された秀頼らは、もはやこれまでと判断して自刃(じじん)します。
且元は、この功によって四万石の大名になりました。
長生きした平和主義者「織田 有楽斎(おだ うらくさい)」
織田信長の十二人の兄弟のうち生き残ったのは、信包(のぶかね)ともう一人、有楽斎長益でした。
大東京のど真ん中にある「有楽町」は、この有楽斎の江戸屋敷があったことからつけられました。
本能寺の変のとき、長益は二条御所にいました。
もちろん、光秀は二条御所を包囲し、激しい攻撃を加えましたが、長益は幸運にも無事脱出して生き延びたのでした。
秀吉の小田原攻めの後、長益は剃髪して「無楽」と称していました。
それは「楽しみ無く、憂いある身の上」という意味でした。
それを哀れに思ったのか、秀吉は「楽しみ有れ」と「有楽」と改名させて、摂津国・味舌(ました)に二千石を与え、御伽衆(おとぎしゅう)に加えます。
有楽は、利休七哲の一人に数えられる第一級の茶人であったことから、秀吉は有楽を優遇し伏見の山寺の数寄屋を与えました。
慶長五年(1600)関ケ原の戦いが起こると、有楽は家康の東軍に属します。
この時、有楽は西軍・石田三成の猛将である蒲生喜内の首を取ります。
この事を喜んだ家康は、大和国山辺郡に三万石を与えました。
家康に対する恩は、有楽にとっては得難いものだった事を証明するかのように、その十四年後の大坂冬の陣では、有楽は大坂城に入って東西の和平工作に当たりました。
淀君は、有楽にとっては姪であり、秀頼はその子でした。
豊臣家の存続というより、有楽の頭には織田家の血筋を残すということしかなかったでしょう。
しかし、不戦を勧める有楽に、秀頼は耳を貸しません。
しかも、大坂城内では、有楽は関東のスパイであるという噂が広がり始めていました。
これを感じ取った有楽は、夏の陣を前にして、大坂城を退いて茶人としての人生を選びます。
元和元年(1615)に大坂城が落城すると、有楽は大和の三万石の所領の内一万石を四男の長政に、一万石を五男の尚長に分け与えて、残りの一万石を自らが取りました。
こうして三人の兄達を飛び越して四男、五男に所領が分け与えられました。
有楽自身が一万石を取ったのは、余生を茶人として生きる為には、経済の裏付けが必要だと判断した為でしょう。
有楽は一時、京都の二条に住んでいましたが、暫くして、その頃荒れ果てていた健仁寺の塔頭・正傳院を再興して隠棲所を造りました。
そこに建てられたのが、茶室・如庵(国宝)です。
そして、元和七年(1621)に七十五歳で生涯を閉じるまで、その書院で余生を楽しみました。
武将は黒田長政がライバルだった「後藤 又兵衛(ごとう またべえ)」
朝鮮の役の時、敵が大河を渡って黒田軍の陣営に襲来します。
相対したのは、敵将・李応九と黒田長政。
二人は組み合ったまま、もつれ合って河の中へ落ちます。
そこに居合わせた小西行長の家来が、慌てて又兵衛にこの事態を告げに行きました。
しかし、又兵衛は一向に助けに向かいません。
平然と、日の丸の軍扇を片手に見物していました。
ようやく敵を沈めて岸に這いあがった長政に
「我らの主君は武勇優れ、相手に引けをとるようなお人ではござらぬ。手出しは無用。」
と、いい放ちました。
その又兵衛を、長政は生涯遺恨に思うことになります。
元来、長政は父・官兵衛(如水)が実子である自分より、なぜ又兵衛を溺愛するのか、嫉妬の念を燃やし続けていました。
関ケ原の合戦でも、又兵衛は黒田の家臣とは名乗らず、あくまでも後藤又兵衛の名で戦いました。
ある時、能楽に端を発し、長政と諍いを起こした又兵衛は、黙って一気に黒田家を退いてしまいます。
慶長十九年(1614)又兵衛は、秀頼の要請を受け、大坂城へ入城することになります。
又兵衛は、大坂方の頼もしい存在となりました。
冬の陣を前にしたある日、徳川勢が一斉に鬨(とき)の声をあげ、天守に砲撃が加えられ城内が混乱。
又兵衛はこれは徳川方の威嚇に過ぎないと皆を鎮めます。
又兵衛のいう通り、間もなく砲声は止みました。
皆が意を強くしたことは、いうまでもありません。
元和元年(1615)夏の陣。
宿陣中の又兵衛の元へ、旧知である京都・相国寺の僧・揚西堂が訪れ、家康の言葉を告げます。
播磨一国五十万石を与えるという誘いでした。
又兵衛は、大坂方が悲運の時である今ゆえ、尚更受けるわけにはいかないと、これを拒絶。
ただし、この家康の申し出に又兵衛は謝意を表わし、秀頼の為には討ち死にを、家康の為には早期落城のため初日討ち死にをすると、誓ったといいます。
五月五日、真田幸村、毛利勝水が三千八百の兵を率いて、単独出撃していた又兵衛を訪れます。
明朝未明、道明寺に集結。
一気に家康の首級(しきゅう)を挙げるという決議をした三人は、訣別の盃を酌み交わします。
しかし、又兵衛は濃い霧に行く手を阻まれます。
落ち合う筈の両軍が姿を見せぬうちに、本多軍、伊達軍と遭遇してしまいます。
又兵衛は敵軍に突入し、銃弾に撃たれました。
そのあと、兵士の多くがその死を知ってもなお、又兵衛に続けと敵陣に突入していったといいます。
貫いた君主への忠義「真田 幸村(さなだ ゆきむら)」
慶長十九年(1614)十一月二十六日、大坂・冬の陣が始まります。
大坂城は既に、徳川家康・秀忠父子率いる二十万の大軍に包囲されていました。
籠城説を唱える大野治長に対し、後藤又兵衛と共に幸村は討って出るべきだと進言。
しかし、この案は退けられます。
そこで、幸村は城の東南隅に、真田丸と呼ばれる出丸を築きました。
徳川方は一斉に真田丸を攻め立てますが、幸村の逆襲により、徳川方は甚大な損害を被ります。
真田丸攻略が難しいと判断した家康は、幸村に叔父である信尹(のぶただ)を使者として「百万石の知行」「信濃の国」などをちらつかせましたが、幸村ははねつけます。
その後、束の間の和睦が成立。
この和睦により、大坂城の濠が埋め立てられたことが、大坂夏の陣の発端ともなりました。
慶長二十年(1615)五月七日、大坂夏の陣で幸村は討ち死にします。
幸村は、関ケ原の戦いに於いて一旦は死を覚悟しましたが、兄・信之の助命嘆願によって命は助かり、九度山に蟄居(ちっきょ)の身となりました。
そして、関ケ原の戦いから既に十数年経っていたにも拘わらず、大坂方からの密使に幸村は九度山脱出の決心をします。
当時、家康は幸村が大坂城に入城することを恐れ、和歌山城主・浅野長晟(ながあきら)に幸村を絶対に九度山から出さぬよう厳命しており、浅野家では九度山近郊の村々に幸村を監視させていました。
そこで、幸村は村々の衆を招いて酒宴を開きます。
彼らが酔いつぶれるのを待って、幸村は一同を引き連れて見事に山を脱出したのでした。
脱出を知っていた村人達が、見て見ぬふりをしたという説もあります。
その知らせを聞いた家康は、地団駄を踏んで悔しがったといいます。
真田家は、その家名を存続させる為に、あらゆる手を打ちました。
確かに、時勢に応じて上杉、武田、織田などと仕える主家を変えて生き延びました。
しかし、この強者・幸村も、親類縁者には柔和な一人の武将だったようです。
父・昌幸が死んだ時、姉婿に「去年からにわかに年が寄り、ことのほか病身になり、歯なども抜け」と手紙に書いています。
また、大坂冬の陣のころ、娘婿にもいかにも父親らしい一文を幸村は書き送っています。
「籠城の上は、必死の覚悟を決めておりますので、この世でお会いすることもないでしょう。すえ(娘)のことぐれぐれもよろしく頼みます。」
まとめ
いかがでしたか。
「力こそが正義」
動乱の時代だった戦国時代。
守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。
裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。
様々な敵に翻弄される現代。
この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。