力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。
この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。
今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。
関ケ原でも秀吉への「義」を貫いた男「石田 三成(いしだ みつなり)」
「古今武家盛衰記」によると、秀吉が行った大事業・太閤検地や刀狩の発案者は、三成であったといいます。
三成が、官史として非凡な能力の持ち主であったことは、間違いありません。
三成の才を見込んで、寺の小僧から大名までに引き立てた秀吉が、慶長三年(1598)八月十八日に伏見城で病没すると、三成の立場に暗い影が射し始めます。
日頃から「切れる男」である三成を煙たく思っていた武闘派の加藤清正、黒田長政、細川忠興、池田輝政、加藤嘉明、福島正則、浅野幸長らが、三成と対立するようになっていきます。
合戦で戦功を上げるのが唯一の出世の道と思い込んでいた彼らには、三成のような人物が秀吉から格段の取り扱いを受けているのが許しがたかったのです。
その険悪なムードが最高潮に達した慶長四年(1599)三月、武闘派の七将は、三成を襲撃しようと画策。
これを知った宇喜多秀家と上杉景勝は、彼らを押さえるのは家康しかないと判断し、事もあろうに伏見の家康に三成の保護を求めました。
その結果、三成は失脚し、佐和山城に蟄居(ちっきょ)を命じられることになります。
家康はこれに勢いをつけ、伏見城に続いて大坂城を占領し、会津に割拠する上杉景勝を討つために諸将を従えて東上。
この隙を捉えて、三成は親友の大谷吉継を佐和山城に呼んで、挙兵の決心を打ち明けます。
家康の猛威を目の当たりにして、三成の力不足を感じた吉継は、翻意せよと説得しますが三成の決心は変わりませんでした。
関ケ原の合戦のとき、三成の西軍は僅かに家康の東軍より数が上回っていました。
そして、西軍の最前線の果敢な善戦に、家康は中々勝負を決することができません。
その時、かねてから家康と内応していた小早川秀秋が、大谷隊に襲いかかりました。
秀秋の裏切りを機に寝返りが相次ぎ、西軍は総崩れとなって敗走。
三成は、大坂城に戻って再挙を図ろうとしますが、井の口村(滋賀県坂田郡近江町)において旧友・田中吉政に捕らえられます。
三成の居城である佐和山城が落城したとき、人々は太閤秀吉の寵臣として一大勢力を築いた三成の城であるから、その城内もさぞ豪華絢爛であろうと噂をしていましたが、期待に反して殆どが板張りや荒壁で、あまりの質素さに驚いたといいます。
三成の志が、どのあたりにあったかを知ることができよう。
秀吉の激しい叱責「小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)」
秀秋は、天正十年(1582)秀吉の妻ねねの兄・木下家定の五男として生まれました。
子供に恵まれなかったねねの手で育てられた秀秋は、やがて秀吉の寵愛を一身に受けることになります。
中納言に任ぜられ「金吾中納言」と呼ばれて、異例のスピードで昇進。
秀吉も、一時は秀秋を相続人と考え「金吾、金吾」と可愛がります。
しかし、淀君に秀頼が生まれると態度が一変。
さらに、秀秋は成長するにしたがって、暗愚さが目立つようになります。
秀吉に疎んじられた秀秋は、文禄三年(1594)に小早川隆景の元へ養子に出されました。
隆景が死ぬと、秀秋は所領・筑前一国と筑後二郡の三十五万石を相続。
慶長の朝鮮再出兵の際には総大将に任ぜられ、明軍の兵士を獣のように槍で殺しまわるという軽挙ぶりを、秀吉に激しく叱責されます。
そして秀吉は、秀秋を越前十五万石に減封、九州の所領没収を申し渡します。
勇猛と野蛮の区別がつかない秀秋は、秀吉に朝鮮での働きぶりを褒められると思い込んでいただけに、動転してこの事態は石田三成の讒言(ざんげん)によるものだという噂を信じこみます。
その落ち込んでいた秀秋を救ったのは、徳川家康でした。
五大老筆頭・家康のとりなしによって、秀秋は辛くも減転封を免れ恩を売られた形となったのでした。
慶長三年(1598)秀吉は、伏見で六十二歳の生涯を閉じます。
それと同時に、加藤清正を中心とする武闘派と、石田三成を中心とする文官派は、日増しに対立の度を深めていきます。
両者の分裂を利用し、武闘派の心を引きつけて自己の権力の拡大を図ろうとしたのが、徳川家康でした。
慶長五年(1600)七月、三成は大谷吉継・安国寺恵瓊・増田長盛らと佐和山城で密儀をこらし、家康討伐の挙兵計画を練ります。
この時、家康は会津征伐のため、関東へ出かけて留守でした。
かねてから予想していた三成の挙兵を知った家康は、慌てず江戸城に腰を据え、諸工作を指示。
家康は、内応する大名からは人質を預かり、態度の不鮮明な大名には領地を与える約束をしてなびかせました。
小早川秀秋の元へは、三成挙兵直後から黒田長政が既に書状を何度も送って、東軍へ内応するよう交渉を重ねていました。
八月一日、西軍は家康方の伏見城を攻め落とします。
この攻防戦には、小早川秀秋も西軍として参加。
秀秋は、一応は西軍に従った形をとっていました。
そうしなければ、我が身が危うかったからです。
九月十四日、大垣城に入っていた西軍は、東軍が三成の居城である佐和山城を襲い、さらに大坂城へ向かう計画であるという情報におびき出され、兵を関ケ原へ移します。
決戦前日のことでした。
既に、三成は関ケ原に到着するとすぐに小早川の陣を訪れています。
狼煙を合図に、直ちに東軍の側面を攻めるという申し合わせをし、さらに秀頼が十五歳になるまで秀秋を関白に任ずる、という法外な条件を誓書にして取り交わしていました。
ところが、その時既に、秀秋は東軍とも誓書を交わし終えていました。
この二つの誓書の日付は、いずれも決戦前日の九月十四日となっており、東西両軍がいかに秀秋の兵の動きを危惧していたかを推し量ることができます。
と同時に、秀秋が最後の最後まで、どっちつかずのまま決戦の朝を迎えた迷いの大きさを読み取ることができます。
決戦当日の十五日、午前十一時。
勝敗は動かず、西軍の三分の二は押し黙ったまま静観を続けていました。
午前十一時を過ぎると、西の宇喜多隊と、最前線で戦っていた福島正則隊の敗色が濃くなってきます。
松尾山の山頂から戦況を眺めていた秀秋の心は、揺れに揺れていました。
三倍近くの敵を前に、今や西軍の方が有利といえる状況を呈している。
今、この自分が山を下って東軍を衝けば、確実に勝利は西軍のものとなる。
しかし、昨夜までは家康につくつもりでいたのだ。
もし、東軍についたら上方の二国が手に入る。
この十九歳の暗愚な青年の頭は、自分のことを考えるのが精一杯でした。
三成は、松尾山に向かって狼煙を上げます。
しかし、四半刻を過ぎても、松尾山は何の反応も示しません。
ぐずぐずと決断を引き延ばす秀秋の心を如実に示すこの沈黙に、東西両軍とも苛立ちます。
秀秋が、戦況を日和見しつつ有利な方へ就こうとしていると見て、家康の怒りは頂点に達します。
あの青二才を何としてでも動かさねばならぬ。
家康は、一か八かの危険な賭けを思いつきます。
秀秋の陣に向け、一斉射撃を命じたのです。
臆病な秀秋が、怯えて約束通りにするか、恐怖心に駆られて逆に東軍に歯向かってくるか、可能性は二つに一つでした。
鉄砲隊の布施源兵衛は、松尾山の山頂に向けて鉄砲の引き金を一斉に引かせました。
果たして、秀秋の鉄砲隊は突如、隣の大谷隊に向けて砲声を轟かせ、次いでなだれ込むようにして山を駆け下り突撃。
殆ど、発作的ともいえる行為でした。
秀秋の背信を薄々感じていた大谷吉継は、万が一の為に四隊を秀秋の攻撃に対して備えさせていました。
ところが、この四隊は、秀秋の態度の急変を見てとると、味方であるはずの大谷隊に襲いかかりました。
裏切りは裏切りを呼んでしまったのです。
戦場は混乱し、大谷・石田隊は潰滅して、小西・宇喜多隊は敗走。
秀秋の「弱気」は東軍の圧勝をもたらしました。
秀秋の性格を読み取った家康の賭けが当たったのでした。
合戦後、家康は秀秋に約束通り、備前・美作(岡山県)二国・五十一万石を与えましたが、二年後の慶長七年(1602)に秀秋は死亡します。
精神を病んでのことと伝えられ、家は断絶。
秀秋は「裏切者」の大役を果たし、罪の意識に苛まれて歴史の表舞台から消えていきました。
友情に殉じ裏切りに倒れた男「大谷 吉継(おおたに よしつぐ)」
豊臣秀吉亡き後、天下を狙う徳川家康は、反徳川の態度を崩さない会津の上杉景勝討伐に動き出します。
この時、吉継は佐和山城(滋賀県)に隠退していた石田三成へ使者を送ります。
三成は、反・徳川の急先鋒でした。
吉継は、もし家康との和解の気持ちがあるなら、仲介の労を取ろうと申し出たのです。
そこで、三成は重大な秘密を打ち明けます。
家康打倒の兵を起こすので、是非この企てに加わって欲しいと。
吉継が受けた衝撃は大きく、無謀極まりないことと中止を求めましたが、三成の決意は変わりませんでした。
態度を保留したまま陣屋へ戻った吉継の脳裏に浮かんだのは、長年、三成から受けた恩義であり、その間に培われた友情でした。
こんなエピソードが残されています。
吉継は、敦賀城主となってから、毛が抜けて肉が崩れるハンセン病を患い、病状が悪化していました。
千利休の茶室で茶会が催されたとき、吉継は不覚にも回し飲みの茶碗の中に鼻汁を落としてしまいます。
吉継は狼狽します。
同席した小西行長は、恐れをなして押し黙ったままです。
その時、三成がその茶碗をとり、何事もなかったかのように茶を飲み干しました。
吉継が、三成と生死を共にしようと思ったのは、この時だといわれます。
吉継は激しく迷ったが、事ここに至った以上は長年の友情に殉じようと決断します。
そして、佐和山城で軍議が開かれ、吉継は西軍の陣容について、厳しい要望を突きつけました。
「英知才覚においては並ぶ者のない三成殿だが如何せん人望がない。西軍への参戦を募り、戦いを有利に進めるには、毛利輝元殿を総帥に頂くべきだ。」
吉継の主張は通り、やがて関ケ原の戦いの当日。
家康から寝返りを強要され、秀秋が動揺していると見抜いていた吉継は、自らの本陣を松尾山の麓において秀秋の寝返りに備えます。
また、脇坂安治などの軍勢を秀秋を牽制できる位置に置きました。
この時、吉継の目は殆ど失明に近く、不自由な体を輿に乗せて移動しながら指揮。
戦いの当初は、西軍優勢に進みました。
しかし、小早川秀秋が寝返りを決意し、吉継軍の背後を衝いたことで、戦況は一変。
誤算だったのは、秀秋牽制の為の脇坂隊などもこぞって寝返ったことで、嫡男・義勝の戦死を知った吉継は自害。
執拗な東軍の捜索にも、吉継の首は遂に発見されませんでした。
「三成に過ぎたる存在」といわれた猛将「島 左近(しま さこん)」
「三成に過ぎたるものが二つあり。島左近と佐和山の城。」
家康に参謀として本多忠勝がいたように、三成には島左近の存在がありました。
島左近が、果たしてどの様に生まれ育ったかは定かではありません。
一説によると大和(奈良県)郡山城主・筒井順慶に仕えたと伝えられています。
この頃から、兵法通として知られていました。
天正十二年(1584)順慶が病死してしまうと、左近は引き続いて養子の筒井定次に仕えましたが、長くは続きませんでした。
その後、羽柴秀長に仕え、秀長の死後は養子・羽柴秀保に仕えて、朝鮮出兵などで数々の武功を立てます。
文禄四年(1595)に秀保が病死すると、左近にとってその一生を決める人物との出会いが訪れます。
それは、石田三成でした。
文禄四年(1595)三成は年上の左近に対し、四万石の所領の半ば近い一万五千石でスカウトしたといいます。
これは史実とはいい難いですが、いずれにしても三成が左近の軍事的才能を必要としたのは確かであり、左近はそれに応え、忠誠を尽くしました。
三成が武闘派七将に狙われ、佐和山城に撤退することになったとき
「家康を討とう。佐和山は千の兵で守り、二千の兵で伏見に火を放つ。」
と提言しましたが、三成は応じませんでした。
関ケ原の戦いの前日、即ち九月十四日に、家康が会津討伐の軍を帰して西進したとき、大垣城の左近は、この危機に自ら五百の兵を率いて杭瀬川まで張り出し、東軍の中村一、有馬豊の軍を打ち破る功を上げます。
この後の軍議で、再び夜襲を提言しますが、この時も受け入れられませんでした。
左近は、幾度か三成に重大な決断を求めますが、残念ながらことごとく退けられます。
九月十五日。
関ケ原の戦いにおける左近の勇猛果敢な奮戦ぶりは、後々までの語り草となります。
黒田長政の家臣達は、左近の軍勢と目の前で戦ったにも関わらず、誰一人左近の「物具」が思い出せませんでした。
あまりの左近の勇猛さに、とても覚えてはいられなかったのです。
開戦から一時間後、左近は手勢百人を連れて討って出ます。
黒田隊と相対した左近は、攻勢に戦いを進めますが、横合いから鉄砲のつるべ討ちにあい、馬上の左近は狙い撃ちにされます。
その後の左近の消息については、銃撃による戦死とも行方不明ともいわれていますが、確証はありません。
京都と長崎県対馬には、左近の墓があります。
まとめ
いかがでしたか。
「力こそが正義」
動乱の時代だった戦国時代。
守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。
裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。
様々な敵に翻弄される現代。
この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。