言わずと知れた将棋界のスーパースター、それは羽生義治です。
15歳の中学3年生の時に、加藤一二三、谷川浩司に続く、史上3人目の中学生棋士としてプロデビューを果たすと、プロ入りしてからも勝ちまくり、勝率第一位賞を獲得するなど、将来を嘱望される若手棋士として、存在感を示していました。
今回は、羽生義治が永世7冠の称号も得て、国民栄誉賞までも得た現在までを振り返ります。
18歳の時に脚光を浴びる
そんな羽生が、最初に世間から脚光を浴びたのは、18歳の時にNHK杯戦で優勝したときです。
その棋戦で倒した相手というのが、驚くべきことに、その時代に4人いた名人経験者全員なのです。
3回戦で大山康晴15世名人を倒すと、準々決勝ではひふみんこと加藤一二三、準決勝では谷川浩司を次々と撃破し、ついには決勝で、当時の名人中原誠を完膚なきまでに破りました。
翌年、新人類と呼ばれた島朗から、将棋界最高のタイトル竜王を大激戦の末奪取しました。このとき若干19歳でという年齢でした。
1年後、その竜王戦に満を持して挑戦してきたのが、終生のライバルとなる谷川浩司です。
このときの竜王戦は、谷川浩司が4勝1敗でタイトルを奪取しました。
一見、誰もが谷川の圧勝で幕を閉じたように思いました。事実、谷川に3連敗した後にようやく1勝を返して、すぐそのあと負けという感じで、なすすべもなくタイトルを失冠していたのですから。
しかし、後日羽生は、「もし、1勝もできずに4連敗で負けていたとしたら…。後々のことを考えると、1勝できたことは本当に大きかった。」と語ったのでありました。
その羽生の発言が正しかったことを証明するかのように、その数か月後に棋王のタイトルを奪取すると、それ以後30年近くもの間、1度もタイトルが無冠になったことがありません。
竜王戦を4連勝で締めくくれなかったことが、谷川と羽生の運命を決定的にしたのかもしれないと思うと、返す返すも谷川にとって痛恨の1敗でありました。
その後、破竹の快進撃を続ける羽生は、平成6年の名人戦で米長邦雄を4勝2敗で倒し、初の名人の座につくと、前年失冠した竜王をその年の秋に奪還し、ついには6冠王となりました。
前人未踏の7冠王達成
残すタイトルは、谷川が持つ王将位のタイトルのみです。平成7年の年明けから始まった王将戦の挑戦者に名乗りをあげたのは、やはりというべきか羽生でした。
平成7年というと、阪神淡路大震災が3月にあった年です。
神戸在住の谷川は、その震災で甚大な被害を受けた中でのタイトル戦でありました。最終局の第7戦までもつれこんだ激闘は、谷川が意地を見せタイトルを防衛し、羽生の史上初の7冠制覇を阻止しました。
誰もが、これで7冠達成は露と消えたと思ったものです。
なぜならば、翌年度、6つのタイトルを全て防衛したうえで王将戦の挑戦者になるなど、不可能としか思えなかったからです。
しかし、羽生はそれをやり遂げてしまいます。
保持している全タイトルを防衛し、王将戦に挑戦すると谷川を4連勝で下し、ついに前人未踏となる7冠王達成の偉業を成し遂たのでありました。
しかも、この間に女優の畠田理恵と婚約までするという、別の意味での偉業を達成しているのも凄いところです。
羽生義治の本当の素晴らしさ
将棋の戦績ばかりが取り上げられることが多い羽生先生ですが、私はその人なりこそ、最も素晴らしいと思います。
7冠王がかかった王将戦が始まった丁度その時に、NHKの将棋講座の講師を務めているのを見て、信じられない思いでした。
なぜ、そんな偉業がかかった大事な時期に講師をしたのかというと、世間に脚光を浴びている自分が講師をすることにより、将棋界が更に注目を集め発展するのでは、と思ったからだそうです。
20代の若さで、自分のことよりも将棋界全体のことを考える、羽生先生の偉大さに感銘を受けたのでした。
まとめ
いかがでしたか。
つい最近では、竜王のタイトルを奪還し永世7冠の称号も得て、国民栄誉賞まで受賞した羽生先生。
我々は、この日本が生んだ偉大なる才能と同時代に生きることができ、歴史の目撃者になれたことに感謝しなければなりません。
羽生先生の今後ますますのご活躍をお祈りしています。