力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。
この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。
今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。
妻の名馬が出世の糸口になった「山内 一豊(やまのうち かずとよ)」
天正九年(1581)二月。
信長は明智光秀を通じ、五畿内隣国の大名小名達に一つの命令を告げます。
それは「京都で馬揃えをするから、銘々駿馬を連れて集まれ。」という指示でした。
馬場は、内裏の東側に北から南へ八町。
その諸将達の馬のパレードで、一際、信長の目を引いた馬がありました。
その馬の持ち主こそ、山内一豊でした。
黄金十枚。
この高値の馬を、どうして貧乏な一豊が持っていたのか。
そこに、一豊よりむしろ有名な「一豊の妻」のエピソードがありました。
ある日、安土の城下で、東国第一という触れ込みで、奥州・南部産の名馬が黄金十枚で売りに出されていました。
黄金十枚はかなりの額で、誰も手が出ません。
もちろん、一豊とて同じことで、一豊は家に帰るとこう嘆きました。
「あの馬さえあれば、来るべき殿の御前での馬揃えに、堂々としておれようものを。」と。
これを耳にした妻の千代は「それならばこの金を」と、鏡箱の底から黄金十枚を夫に差し出します。
「この金は嫁に来る時、夫の一大事に使うよう父から渡されたお金です。今こそこの黄金を使うとき。」と、千代はいったといいます。
一豊は、すぐさま名馬を買いに行きました。
この馬が注目を集め、これをきっかけに一豊は、出世への道を歩きはじめることになるのです。
千代の内助の功は、これだけではありません。
慶長五年(1600)上杉景勝討伐に向かった小山の陣の一豊に、千代からの書状が二通届きます。
大坂方奉行・増田長盛と長束正家の連名で「山内一豊は石田三成の挙兵に味方するように。」という勧誘の一通。
もう一通は、千代から一豊へ「家康のために忠節をつくすよう」と書かれたものでした。
千代は当時、大坂にいました。
石田三成は、上杉勢と戦う武将達の妻子を監視していました。
その厳しい監視下で「心配なく」と千代は書いてきたのです。
一豊は、この二通を開けることなく家康へ提出。
それは、使者・田中孫六の編笠の緒に、開封せずに差し出すよう記された千代からのもう一通の密書を受け取っていたからでした。
一豊はさらに「三成討伐に際しては自分の掛川の城を明け渡します故、存分にお使いいただきたい。食糧も提供しますし、人質も出します。」と申し出ます。
三成挙兵の証拠を手にした家康は、一豊の忠誠を認め、一豊は旧領の四倍にもあたる土佐一国を手にすることになります。
千代の内助の功のエピソードはまだ多くありますが、これが果たして史実かというと疑わしい点も多い。
ですが、なかなか頭のいい女性であったことは確かでしょう。
「槍先ならば天下を取る」と豪語した男「池田 輝政(いけだ てるまさ)」
播磨姫路城の太守・池田輝政は、徳川家康の次女・督姫(富子)を妻に迎えた幸運児として知られています。
確かに、晩年の輝政は、播・備・淡三国八十七万石の知行高を誇りました。
永禄七年(1564)輝政は、恒興の次男として尾張・清州城に生まれます。
通称は三左衛門、幼名は古新といいました。
父・恒興は、歴戦の勇士として名高い。
天正八年(1580)初陣である荒木村重攻めが行われます。
輝政が十七歳の時で、父と兄と共に花隈城(神戸)を攻めました。
その手柄によって、摂津のうち十万石を賜ります。
信長は恒興に大坂城、長男・之助に伊丹城、輝政に尼崎城を与えました。
天正十年(1582)六月、明智光秀の謀反によって信長が討たれると、池田親子は秀吉に仕えます。
恒興は、娘を秀吉の養子である秀次に嫁がせ、秀吉は輝政を養子にすることを約束。
天正十二年(1584)長久手の合戦が起きます。
これは、秀吉と織田信長の次男・信雄の不和・対立から起こった合戦でした。
家康は信雄を援護し、恒興、兄・之助、輝政は秀吉につきました。
父の死を聞いた輝政は、父や兄だけを死なすわけにはいかぬと、敵陣への突入を図ります。
そのとき、馬の口を持ち必死に輝政を止める者がいました。
それは、家臣の番藤右衛門でした。
藤右衛門は、ここで一つの嘘をつきます。
父上は無事で死んではいない、一刻も早くこの地を離れるようにと。
「このふとどき者」と、輝政は嘘を見抜いて、鐙(あぶみ)で藤右衛門の頭を蹴りつけたといいます。
しかし、それにも係わらず、藤右衛門は馬の口を離さず輝政を無事救出。
輝政にとって、父や兄を見捨てたことは、生涯忘れることのできないトラウマになったに違いありません。
秀吉は二人の死を悼んで、輝政のより一層の取り立てを、輝政の祖母・養徳院宛ての手紙で頼んでいます。
輝政は次男でしたが、池田家の家督を継ぐことになりました。
この後、輝政は慶長五年(1600)関ケ原の戦いを含め、福島正則と先陣争いなどを繰り広げます。
大きな戦功は無かったにも係わらず、同年、播磨五十二万石を与えられています。
その際、正則からこういわれました。
「大国を領しているにはわけがある。大御所(家康)の婿だからだ。我らは槍先で国をとったが、お主は一物で国をとったのよ。」
輝政は少しも揺るがず、こう答えました。
「いかにもわしは一物で国をとった。が、もし槍先でとれば天下をとってしまったからのう。」
偉大な父のもとで苦しんだ男の生き方「黒田 長政(くろだ ながまさ)」
関ケ原の合戦は、確かに「東」と「西」の対決でしたが、石田三成と豊臣家の子飼いの西国大名が豊臣秀頼を前面に押し立てて徳川打倒を目指し、家康に従う大名達もまた豊臣恩顧の大名であるという豊臣系大名の意地と信念の戦いでもありました。
この合戦の意図を察し、キーパーソンの一人である福島正則を訪ねた男がいました。
それは、黒田長政でした。
「三成はおのれの天下盗りしか頭にない。秀頼様をおしたてるは口実である。」
福島正則は、秀吉子飼いの武将であり、秀頼への忠誠心は誰にも負けぬものがありました。
その正則がどちらにつくかは、ひとつの鍵でした。
年来の友人であった正則は、長政の言葉に耳を傾けます。
そして、諸大名の先頭に立った正則は、徳川家康の勝利に大きく貢献。
この長政の働きがいかに大きかったかは、家康自ら愛用の兜と愛馬一頭を与えていることからもわかります。
家康は、それまで中津十二万石であった黒田家に、武功により筑前国(福岡県)五十二万三千石を与え、福岡を居城とさせました。
長政の父は、播州姫路城主・黒田官兵衛(孝高・如水)であり、長政の幼名は松寿丸といいました。
如水の方針で、長政は黒田家の臣・後藤又兵衛と兄弟のように育てられます。
又兵衛は八歳年下の長政に仕えましたが、少年時代から争いが絶えませんでした。
長政が討てと命じた敵を又兵衛が討たなかったなど、ことごとく盾を突いて、合戦でも二人は激烈な功名争いを演じました。
二人の仲が決裂した点については、色々な説があります。
慶長八年(1603)長政が、筑前五十二万石の太守になった時、又兵衛は一万五千石を与えられましたが、これを不服としたこと。
長政が、又兵衛の子・基則に能役者の小鼓を打たせたことに、又兵衛が腹を立てたなどなど。
いずれにしても、如水の予測した通り、武勇を競わせた二人は決裂してしまうのでした。
長政は数々の戦いを経ながらも、ついには父・官兵衛を超えることはできませんでした。
このことは、他の人々の評価というより、むしろ長政自身に帰するところが多い。
長政の子・忠之への遺言は、ひたすら官兵衛の敷いた路線の継承だったといわれています。
元和九年(1623)八月四日没。
所領を安堵するための深謀遠慮「鍋島 直茂(なべしま なおしげ)」
天正十五年(1587)肥後・熊本で起きた一揆を平定せよという秀吉の命に従って、多くの九州の大名が出陣しましたが、その中に隣国・肥前(佐賀)を統治する龍造寺政家の姿はありませんでした。
肥前へ急ぐ重臣・鍋島直茂に焦りの色が濃かった。
なぜなら、豊臣方の軍(いくさ)奉行を務める小早川隆景から、病気で出陣ならずというがまことか、仮病でないのかと詰問され、ひたすら弁解に終始したからでした。
鍋島家は、龍造寺家に代々仕えてきた重臣で、直茂は名臣の誉れ高かった。
龍造寺家を盛り立てたのは直茂の力によるところが大きいと、家中の誰もが信じていました。
それに引きかえ、当主・政家は凡庸な男で、とても一国を治められる器量は持ち合わせていませんでした。
直茂は政家の不参戦の理由など聞く気にもなれなかったが「祈祷師が出陣すると危ないといった。神社の楠の大木が倒れた。」という釈明には、怒りを通り越して呆れてしまったと思われます。
政家を無理やり戦場へ連れ出したことで、秀吉に対する異心の疑いは消えましたが、直茂の心は晴れませんでした。
龍造寺家中も揺らいでいました。
不参戦事件の三年後、政家は病気を理由に三十五歳で隠居させられます。
本来ならば、家督は嫡男の高房が継ぐべきところですが、政家の祖母・慶誾尼(けいぎんに)の一言で逆転。
「直茂に龍造寺家を託すべきだ」というのです。
その英明さに賭けたのです。
直茂は龍造寺家の家督を継いだが、鍋島姓のままでの相続となりました。
表向きは、主家の所領を安堵するために継ぎはしたが、家名まで継いでは恐れ多いというわけです。
直茂は、ただ単に忠勤一途な武将であったわけではありませんでした。
凡庸な当主を見るにつけ、自分が取って代われたら、という野望に揺らいだこともあったと考えるのが自然でしょう。
その後の直茂は、それまでにも増して天下盗りの情勢を冷静に分析。
秀吉の実力に畏敬の念を持ったからこそ、九州平定にいち早く参加。
徳川が政権を握ると見抜くと、誰よりも早く家康に恭順の意を示しました。
直茂は、関ケ原の戦いでは自信を持って東軍につきます。
こうした深謀遠慮が、鍋島家三十五万石を安泰へと導いていくことになったのです。
まとめ
いかがでしたか。
「力こそが正義」
動乱の時代だった戦国時代。
守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。
裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。
様々な敵に翻弄される現代。
この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。