今回、アルペンスキーの世界における「天才」や「神」といえる選手である、インゲマル・ステンマルクを紹介します。
アルペン界に君臨する絶対王者
インゲマル・ステンマルクは、1956年3月18日に、北極圏に程近いスウェーデンのヴェステルボッテン県ストゥールマン市という辺境の地で生を受ける。
1973年にワールドカップデビューを果たすと、その翌年のシーズンから破竹の快進撃が始まる。
全盛期のステンマルクは、100分の1秒を争うアルペンスキーにおいて、2位に2秒以上もの差をつけて優勝することも珍しくなく、「ステンマルクに次ぐ2位は優勝に値する」と同時代の選手たちに言わしめるほどの絶対的存在であった。
当時、4種目あるアルペンスキーのうち、スラロームとジャイアントスラロームの技術系の2種目のみの参戦にも関わらず、1976年~1978年にかけてワールドカップの総合優勝を3連覇し、1980年開催のレークプラシッド冬季オリンピックにおいては、スラロームとジャイアントスラロームの2冠に輝くなど、1970年代半ばから1980年代の初めにかけて絶頂期を迎える。
ステンマルクのデビューした頃のヨーロッパは、ドイツ、オーストリア、スイス等の歴史と伝統に裏打ちされたアルペン大国が席捲していたが、アルペン後進国スウェーデン出身のステンマルクの躍進は、これらの国々からするとゆゆしき事態であった。
しかも、ステンマルクは特別なコーチをつけるわけでもなく、恵まれているとは言い難い練習環境で、実の父親がコーチ役を担って指導をするという状況下でのことでだ。
これらのアルペン大国は、ステンマルクの総合優勝3連覇を受け、FIS(国際スキー連盟)を通じてワールドカップにおける獲得ポイントの変更という荒業に打って出る。
これ以上、スキー大国の威信にかけて、アルペン界で最も名誉あるタイトルのワールドカップ総合優勝の座を、ステンマルクに渡すわけにはいかないからだ。
これ以後、さすがの絶対王者も、2度と総合優勝を果たすことはできなかった。
このような仕打ちを受けながらも、ステンマルクは不平一つ言わずに、黙々とゲレンデを神のシュプールで駆け抜け、ワールドカップにおいてスラロームで40勝、ジャイアントスラロームでは46勝という空前絶後の成績を残す。
これは、男子では2位のヘルマン・マイヤーが54勝であることからも、その記録の偉大さが分かるであろう。
「孤高の天才スラローマー」の素顔
そんなステンマルクが、現役最後となる志賀高原でのワールドカップを滑り終えた後のインタビューを、私は未だに忘れることができない。
それは、インタビュアーの「キャリアの前半で、ほぼ全てのことを成し遂げたというのに、何故あなたは、30歳を過ぎてまでレースを続けたのですか。」という質問に、
「みんな、子どもの頃に、砂いじりやトランプに夢中になって遊んだよね?それと全く同じなんだよ。」と少年のような輝く笑顔で答えるステンマルク。
現役時代、「バルカンの1匹狼」と異名をとった、孤高の絶対王者とは到底思えぬその柔和な表情に、何とも言えぬ深い感慨を覚えたのであった。
また、引退後にNHKのドキュメンタリ番組で、スキーを通じて子どもたちと触れ合う姿は、現役時代と変わらぬ威厳を感じさせる中にも、温かく誠実な人柄が滲み出ており、彼の素顔に触れることができる、貴重な映像といえるのではないだろうか。
まとめ
伝説のスキー選手、インゲマル・ステンマルクについて紹介してきた。
彼は現役時代、“神”とか“天才”と呼ばれ、同時代の選手たちに畏怖されてきた。
しかし、後年、彼と鎬を削った同時代の選手たちは、「ステンマルクと戦えたことは一生の誇りだ。」と口にする。
それは、その雄姿を知る、我々アルペンスキーファンも同じ思いだろう。
インゲマル・ステンマルク。
彼ほど“王者”という言葉が似あうスポーツ選手に出会うことは、2度とないかもしれない。