力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。
この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。
今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。
秀吉が手放しで褒めた「天下の仕置き」ができる人物「直江 兼続(なおえ かねつぐ)」
「陪臣にて直江山城、小早川左衛門、堀監物抔は天下の仕置するとも、鹿根間敷者なりと、称誉せられけり」(「名将言行録」)
直江兼続を称して、豊臣秀吉はこういったという。
天下の政治を安心して預けられるのは、兼続など数人に過ぎないと。
秀吉はもとより、徳川家康さえも一目置いていたといわれる「長高く姿容美しく、言語清朗な」智将・兼続。
兼続は、永禄三年(1560)樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれました。
父は、坂戸城内の炊事係をしていたといわれます。
幼い頃から利発だった兼続は、城洞院(上杉景勝の母)の目に留まり、景勝の近習に取り立てられます。
天正六年(1578)御館の乱の際には、景勝の側近としてその勝利に貢献。
兼続、十九歳でした。
兼続は、その他にも佐渡平定、朝鮮出兵、大坂冬の陣、夏の陣など名参謀として名高く、その逸話も数多い。
景勝に謀反の疑いがある為、上洛して釈明せよという家康に反論した「直江状」は有名で、実に理路整然として名高いものです。
また、伊達政宗とは次の様な話が伝わっています。
あるとき、江戸城内の廊下で兼続は政宗とすれ違いました。
政宗はその時、陪臣の兼続が、六十万石の大名である我が身に何の挨拶もしないのは無礼であると咎めます。
すると、兼続は少しも怯まず、こう言い放ったといいます。
「長年戦場ではお目にかかっておりましたが、いつも後ろ姿ばかりで正面からは今日が初めてなので一向に気がつきませんでした。」
政宗が、聚楽第で諸大名を前にして、懐中から金銭(大判)を取り出して得意げに見せました。
兼続が、扇の上に載せて見ていると、政宗は「手にとってよく見よ」と告げます。
すると、兼続はこういいました。
「謙信の時より先陣の下知して麾取り候手に、かかる錢しき物取れば汚れ候故、扇に載せて候」(「常山紀談」)
政宗は、一言も返答できなかったといいます。
兼続は「四季農戒書」という農業の手引書を出版し、青苧や漆、紅花などの栽培を奨励。
三歳年上の賢夫人お船の方とは、仲睦まじい夫婦だったといいます。
幕府に刃先を突きつけた男「上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)」
上杉景勝の父は、長尾政景。
母は、上杉謙信の姉・仙洞院です。
二十一歳で、上杉謙信の嗣子(しし)となりました。
景勝は無口で、いつもこめかみに青い筋を立てていました。
十四歳で既に謙信の側奉公を命じられていた景勝は、ある時、謙信の二人の家来、深沢と九鬼が謙信の意に背いたことを知ります。
景勝は、登城した深沢に「目薬をさしましょう」と偽り、胡椒の粉をふりかけ、慌てた深沢を傍にいた九鬼共々斬殺してしまいます。
こうして景勝は、謙信とその部下達からも一目置かれる存在となっていきました。
謙信が急死すると、本葬も済まないうちに跡目争いが持ち上がりました。
謙信は生涯独身でしたが、もう一人、北条氏康の七男・景虎を養子にしています。
この戦いは「御館の乱」とよばれ、家臣団も二派に分かれました。
両陣営は、武田勝頼を味方にする為にそれぞれ手を回しましたが、勝頼は東上野、北信濃の上杉領を割する条件を呑んで、景勝側につきました。
景勝は勝頼の妹・菊姫を正室に迎え、天正七年(1579)御館城で遂に景虎を倒します。
天正十年(1582)織田信長が本能寺で倒れると、景勝は柴田勝家と秀吉の両方から誘いを受け、景勝は秀吉に忠誠を誓います。
以後、直江兼続などの秀れた重臣にも恵まれ、文禄三年(1594)には中納言となり、豊臣五大老の一人となりました。
しかし、秀吉の死を迎えると、景勝の足元がまた揺らぎ始めます。
景勝にとって、慶長五年(1600)の関ケ原は屈辱的な戦いでした。
家康は、景勝の上坂をしきりに求めましたが、景勝はこれを無視して戦力の増強を図った為、越後の堀秀治、出羽の戸沢政盛が、家康に「景勝に謀反の兆しあり」と報告。
この為、家康は上杉征伐に乗り出します。
家康は六月十六日、大坂を出発して一旦小山まで進み、石田三成の挙兵の報を待っていたかのように引き返して、関ケ原の戦いが始まりました。
西軍敗戦の結果、景勝は会津百二十万石から、一挙に三十万石の米沢城へ転封させられました。
慶長十九年(1614)大坂冬の陣。
景勝は、今度は東軍として出陣。
恩義のあった豊臣家は滅び、以後、景勝は老臣・直江兼続らと藩の繁栄に力を注ぎました。
貿易商と武将との間を悩み生きたカトリック信者「小西 行長(こにし ゆきなが)」
慶長五年(1600)九月十五日、関ケ原の戦い。
周知の通り、東軍が圧勝し多くの西軍の兵が敗走。
九月十九日、小西行長は糟賀部村(岐阜県)の寺の僧と林蔵主という関ケ原の住人に、自ら名を告げて進んで捕らえられます。
それは、カトリック信者は自殺ができないからでした。
堺(大阪府)で、薬や化粧品を扱う商人から戦国大名になった行長は、多くの戦国武将のうちでも異色の存在でした。
行長は、軍事的才能はありませんでしたが、商人の特質である語学力と優れた経済感覚と外交に対する知識を持っていました。
天正十年(1582)行長は、備中・高松城を水攻めにしたとき、水上に軍船を浮かべて城に砲撃を加え、戦いに貢献しています。
或いは、キリシタンの武将として、大坂にハンセン病の病院を建築したり、孤児救済事業にも尽力しました。
天正十五年(1587)突如として発せられた豊臣秀吉によるバテレン追放令の時も、放逐されたキリシタン大名の高山右近の為に隠れ家を用意したり、バテレンの保護を呼び掛けました。
行長に対し、秀吉は天正十六年(1588)肥後半国と天草二十四万石を与えています。
秀吉の死後、朝鮮出兵から帰還した武将の戦功が問題になると、加藤清正らの率いる武闘派と石田三成、行長ら文治派との対立は益々激しくなっていました。
そのうえ、家康が五大老の取り決めを無視し、福島正則、伊達政宗との縁組みを行ったことが三成派と反・三成派の溝を深めます。
老練な家康は、行長にも食指を伸ばしたという説があります。
「日本切支丹宗門史」(レオン・パジェス著)によると、家康は自分の曾孫である娘の子と、行長の長男との結婚を申し出たといいます。
家康にとって行長は、キリシタン大名を味方に引き入れる為には切り捨てることのできない存在でした。
慶長五年(1600)十月一日。
行長処刑の日、石田三成、安国寺恵瓊と共に、行長は六条河原で処刑されました。
遺体は、信徒達によって、京都でカトリックの埋葬の儀式を受けました。
その遺体を包んだ袍衣(ほうい)には、行長が妻と子供に宛てた遺書が縫い込まれていました。
「今度はお前たちは心をつくり神に仕えるよう心がけてもらいたい。なぜなら、現世においては、すべては変転きわまりなく、恒常なるものは何一つとして見当たらぬからである。」
兵の九割を失った薩摩人「島津 義弘(しまづ よしひろ)」
島津義弘の生涯は、五十二度に及ぶ合戦にことごとく勝利を収めました。
赫ヶたる(かっかくたる)武勲に輝く見事な武将人生でしたが、六十六歳という老齢で大敗することになります。
義弘は、慶長五年(1600)九月十五日の関ケ原の合戦で、西軍(石田三成)についていました。
戦いが始まっても動こうとしない島津軍にしびれを切らした三成が、義弘の甥・豊久に「方々も我らに続いていただきたい」と詰め寄ります。
豊久は「本日は合戦は我らは我らで武名を賭ける所存、勝敗は天の知るところでごわす。」と自分の方法論で武勇に励むことを主張し、この催促を一蹴。
それから間もなく、東軍が小早川秀秋軍に鉄砲を撃ちかけ、それに驚いた小早川軍が西軍の大谷吉継軍に襲いかかりました。
これが、西軍の大きな敗因となりました。
残された島津軍を取り囲むものは、背後の伊吹山、左右と前方の東軍八万、そして正面の家康陣という八方塞がりの状態でした。
降りしきる雨の中で退却を決めた島津軍に残された方法は、敵中を中央突破して退却することだけでした。
島津軍は、躊躇することなく伊勢街道を目指します。
部隊は常に固まって、錐(きり)をもみ込むように敵陣目がけて「エイトウ、エイトウ」と気合をいれながら敵陣に一直線に突き刺さっていきました。
家康幕下でも屈指の強豪・井伊直政隊と、これも選り抜きの強豪・本多忠勝隊を何とか切り抜けたとき、島津軍は八百の兵がやられ二百を残すのみとなっていました。
殿軍となって再び走りだす豊久を追撃する井伊・本多隊。
井伊隊の厳しい追撃に対し、島津軍は「ステガマリ」戦法をとりました。
最後尾の武者が草の中に潜んで、銃で追撃者を撃つ。
弾丸が尽きれば、その者は槍で追撃者に突っ込んで戦う。
武者達が死ぬまで戦って時間稼ぎをする間に、一行はさらに逃げ延びる。
このステガマリで、柏木源藤という男の撃った弾が井伊直政に傷を負わせたとき、義弘の手兵は僅か百数十名に減っていました。
疾駆していた義弘達は、伊賀の山中で空腹になり、馬を殺しそれを分けて食べました。
大坂・住吉を過ぎ、改めて手兵を数えると、八十余名に減少。
実に、九割以上が戦闘死するという、狂気にも似た熾烈な撤退作戦は、薩摩軍の勇猛と恐ろしさを日本中に印象づけました。
まとめ
いかがでしたか。
「力こそが正義」
動乱の時代だった戦国時代。
守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。
裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。
様々な敵に翻弄される現代。
この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。