力と力のぶつかり合いで覇権が争われていた戦国時代。
この国には時代を揺るがし、あるいは時代に翻弄された男たちがいました。
今回は、そんな戦国動乱の時代を創り上げた歴史の主役たちや、茶人、宣教師、僧侶などの人間模様を4つ、ご紹介します。
秀吉と光秀どちらの味方か「筒井 順慶(つつい じゅんけい)」
筒井家は、大和・興福寺の僧兵隊長出身の豪族でした。
筒井一党の団結は固かったが、宿敵・松永弾正が後に大和諸城を固めるに及んで、一党は大きな影響を受けます。
弾正に筒井城を追われた順慶は、その後、二度は弾正軍に勝ちましたが、永禄十一年(1568)十月再び筒井城を追われます。
このとき、弾正は織田信長に臣従していました。
しかし、順慶にとって、思わぬ幸運な事態が発生します。
信長と弾正の間に、亀裂が生じたのです。
その一方で、順慶を信長の家臣・明智光秀が熱心にとりなしてくれていました。
この時、信長に臣従したことから、順慶は光秀の寄騎になり、信長から大和一国の支配を認められます。
子どものいない順慶は、元亀三年(1572)正月、慈明寺順国の子・四郎定次を養嗣子にし、天正三年(1575)二月に、定次の室に信長の養女・秀子を迎え、信長と親戚関係になります。
やがて順慶は、原田直政の指揮下で石山本願寺に参陣。
この戦いで直政が討ち死にしたので、後任として信長から大和の主に命ぜられます。
しかし、これをおもしろく思わぬ男がいました。
その名は、松永弾正。
だが、弾正・久通親子は、信長に無謀な戦いを挑んで自滅し、天正八年(1580)十一月、順慶は晴れて郡山城に入城します。
天正十年(1582)六月二日、順慶の運命を左右する事件が起きます。
本能寺の変です。
この日の早晩、順慶は細川忠興、高山右近と備中出陣のため、郡山城を発ち西国街道を進もうとしている時に、この報を聞きます。
そしてその直後、順慶は「秀吉が光秀を討つべく山陽道を猛進している」という情報を得ていたはずです。
当然のことながら、光秀からは援助を求められます。
光秀はそれだけでは足りず、順慶を促す為に洞ヶ峠にまで出向きます。
さらに光秀は「参陣せねば郡山を攻める」と脅かしたが、順慶は動きません。
この洞ヶ峠は、眼下に京都・大坂の平野を一望に治める要衝の地です。
後に、順慶が洞ヶ峠で戦況を眺めて日和見を決め込んだとされていますが真実ではなく、洞ヶ峠へ行ったのは、光秀であって順慶ではないのです。
十日、順慶は秀吉に使者を送ります。
翌十一日に、順慶と秀吉の確約が成立、十三日、秀吉は明智軍を撃破します。
結局、順慶が郡山城から動いたのは十四日で、皮肉にも光秀が小栗栖(京都市伏見区)の里で土民に殺された日でした。
戦後、順慶は秀吉の機嫌を取るために、筒井筒と呼ばれる高麗茶碗の名器を献上しています。
攻撃型武将の生き方と限界「柴田 勝家(しばた かついえ)」
勝家を語るとき「勇猛」「剛直」という言葉が必ず現れます。
しかし、勝家にはもうひとつ、優れた民政家としての能力もありました。
「刀ざらえ」がそれです。
勝家は、一向宗の宗徒達の武具を没収し、農具に作り替えて分配しました。
さらに、余ったものは鎖にして舟をつなぎ、舟橋にして九頭竜川に架橋。
結果、領内からは一揆が起こらなくなります。
勝家がやったことは、後年秀吉が行った「刀狩り」の先駆であったのです。
元々、秀吉が「羽柴」姓を名乗ったのは、丹波長秀と柴田勝家の姓にあやかったものです。
信長軍団の中で、勝家は秀吉より群を抜いて高い地位にありました。
その秀吉が、信長の死によって突然主導権争いのトップを走り始めたのだから、勝家が心中穏やかなはずはなく、巻き返しの為、信長の後継者を決定する清州会議を開きます。
そして、信長の三男・信孝を推す勝家らと、信長と運命を共にした長男・信忠の嫡男・三法師こと嫡流だと主張する秀吉が、真っ向から対立しました。
勝家は、ここでも秀吉に主導権を奪われ、結局、後継者は僅か三歳の三法師に決まり、秀吉は後見役に納まってしまいます。
勝家、一益、後継者争いに破れた信孝の三人は、同盟を結んで秀吉に闘いを挑みます。
この闘いが、賤ヶ岳の合戦です。
秀吉は、江北の柳瀬に出陣した勝家と対峙。
この間に、岐阜で信孝が兵を動かしたことを知った秀吉は、大垣に移動します。
その隙を狙って、勝家の甥である佐久間盛政が、秀吉がいない大岩山の砦を攻め落とします。
敗北を知った秀吉は、十里(四十キロ)あまりの道を、五時間という考えられない速度で賤ヶ岳に駆け戻ります。
勝家は盛政に、奇襲作戦に出たら速やかに撤退することを約束させていました。
しかし、盛政は勝利に酔って長く留まり過ぎます。
盛政軍は、突如現れた秀吉軍に慌てふためいて、一挙に突き崩されます。
勢いに乗った秀吉軍に勝家軍は総崩れとなり、北ノ庄(福井市)へ落ち延びていきました。
実は、秀吉が大垣へ移動したのは、勝家軍にわざと隙を見せておびき出す為でした。
加えて、前田利家らが勝家を裏切って秀吉についていたことも、大きく影響していました。
勝家は、最期の時を迎える決心を固め、妻として迎えた信長の妹・お市も、勝家と運命を共にします。
お市と先夫・浅井長政との間にできた三人の娘を逃した後、勝家は天守閣に登って火を放ち、壮絶な最期を遂げます。
勝家六十二歳、お市三十七歳でした。
命がけで君主に尽くした「二番手」「前田 利家(まえだ としいえ)」
利家の人生で最も興味深いのは、賤ケ岳の合戦です。
光秀を倒した秀吉は、天下を握るために柴田勝家を倒す必要がありました。
この豪毅な快将は、秀吉の大先輩でした。
利家にとっても勝家は大先輩であり、常日頃は「オヤジ」と呼ぶほど親しく心から尊敬していました。
片方の秀吉は朋友で、女房同士も仲が良い。
問題はどちらにつくかですが、利家はこの頃、北ノ庄の隣の武生にいたので、勝家に味方する成り行きになります。
北ノ庄から賤ケ岳へ行くには、武生を通過しなければなりません。
勝家と秀吉は、冬を挟んで長い睨み合いに入ります。
そして、バランスが崩れたとき、利家は戦線を離れて武生の城に帰ってしまいます。
勝家は負けて逃げ、秀吉がこれを追撃。
逃げる途中、勝家は武生の城に駆け込みます。
このとき勝家は「お前はオレを裏切った」となじってもいいのに、ひと言もそんな話はせず、北ノ庄へ落ちていきます。
続いて秀吉。
この秀吉もまた「なぜ最初から親友であるオレに味方しなかったんだ」となじってしかるべきだが、ひと言もそれに触れません。
この二人の行動共に、中々できることではありません。
もっと凄いのは、利家は自分の城の中でどちらかを(或いは両方とも)殺すことができる立場にあったのに、そうしませんでした。
なぜかというと、利家は自分は頂上を目指していない、オレは二番、三番走者だという意思を表明したかったからでしょう。
利家は、秀吉の幕下に入ると、勝家が立て籠もった北ノ庄(福井城)攻撃の先鋒となります。
利家は、惚れた秀吉の為に命を賭けたのです。
それが、二番手がトップランナーに示すべき忠誠心というものでしょう。
秀吉が没すると、利家は家康と対立することになります。
和解もしますが、残念ながら家康の方が健康と長寿に恵まれていました。
慶長四年(1599)三月三日、利家が亡くなると、家康は前田家を踏みつぶしにかかります。
利家の子・利長は弁解に努め、利家夫人・芳春院(松子)を江戸へ人質に出すという低姿勢でこの危機を切り抜けます。
これは利家の意志でもあったはずで、徳川家に対して前田家は二番手であれ、二番手である以上、命がけの忠誠を示せと、言い残したに違いありません。
芳春院も利長もそれをよく守り、だからこそ明治維新まで加賀百万石は大大名として生き延びたのです。
人生が最も燃えさかった時期「佐々 成政(さっさ なりまさ)」
柴田勝家を破り、信長の後継者としての地位を固めた羽柴秀吉にとって、気がかりなのは徳川家康ただ一人でした。
そうした天下の形勢のなか、織田家の家臣で反・秀吉の立場を取り続けたのが成政です。
信雄・家康連合軍と秀吉との間に小牧・長久手の戦いが始まると、雪深い越中に届いた戦況報告に成政は喜びます。
何故なら、秀吉軍がしばしば窮地に立たされたからです。
しかし、信雄が秀吉の懐柔策にまんまとはまって和睦を結んでしまった為、戦う名目を失った家康は兵を浜松に返すしかありませんでした。
この知らせを聞いた成政の驚きと失望は、いかばかりだったか。
もし知らせが事実なら、秀吉の大軍が押し寄せるのは必至で、不安と焦燥にかられた成政は家康と信雄に直接会って本心を確認することを決心します。
問題は浜松までのルートですが、成政は富山から黒部渓谷に分け入り、厳冬の北アルプス立山を越えて信濃に抜ける危険極まりないルートを選びます。
そうとなれば、動きは早い。
案内人を先頭に「かんじき」を履いて成政一行は進みます。
一番の難所は、馬の背のようなさらさら峠。
凍死する者、滑落する者、雪崩にのまれる者が相次ぎました。
十二月二十五日(新暦一月二十五日)成政は信濃の大町を経て上諏訪へ。
浜松城に奇跡的にたどり着いた成政を見て、流石の家康も驚きます。
しかし、成政の決死の思いは通じませんでした。
何故なら、信雄に再挙を勧めましたが、逆に成政を抑えようと説得し始める有様で、成政の胸中はこんな男(信雄)の為に俺は織田家の再興を願ってきたのか、という虚しさに占められたのではないでしょうか。
行きの「さらさら越え」には一縷の望みがありましたが、復路には虚しい失望感しか残っていませんでした。
秀吉の軍が富山城を包囲したのは、翌天正十三年(1585)八月です。
成政は剃髪して恭順の意を表し、軍門に下りました。
人間は、一生のうちで最もエネルギーの燃えさかる時期があります。
成政にとってのそれは「さらさら越え」の時だったのではないでしょうか。
後に肥後・熊本城主となった成政は、生きることに疲れ切った脱け殻でした。
領地で起こった一揆を抑えられず、秀吉に切腹を命ぜられたのは、天正十六年(1588)五十三歳のことです。
まとめ
いかがでしたか。
「力こそが正義」
動乱の時代だった戦国時代。
守護大名だけでなく、素浪人や農民、商人出身でも、強ければ戦国武将になれる実力社会でした。
裏切りやだまし討ち、暗殺などなんでもあり。
様々な敵に翻弄される現代。
この逆境の時代に、さまざまなイノベーションによって生き抜いた戦国武将や庶民から学ぶ物は多いかもしれません。