明治時代から始まった歴史ある演芸「浪花節」とは? ~そのアクロバティックとさえ思える「声づかい」と「節回し」が一番の魅力の「浪曲」~

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皆さんは「浪花節(なにわぶし)」と呼ばれる日本の伝統芸能をご存知でしょうか。

戦前までは、落語や講談とともに演芸の主流を成していました。

そこで今回は、その「浪花節(なにわぶし)」について、ご紹介します。

「浪花節」とはなんぞや?

浪花節は、起源が800年前とも言われ、浄瑠璃(じょうるり)や説経節(せっきょうぶし)、祭文語り(さいもんかたり)など、古くから伝わったものをベースに大道芸として始まりました。

主に、七五調で演じられ「泣き」と「笑い」の感情を揺さぶり、時代に翻弄されながら人々の心に寄り添ってきた芸能として人気が高いです。

声を出して演じる者は「浪曲師」、三味線伴奏者を「曲師」と呼び、一つの物語を節(ふし)と啖呵(たんか)で演じる流れになり、一題は30分程度の長さです。

節は歌う部分で、物語の状況や登場人物の心情を歌詞にし、啖呵は登場人物を演じて台詞を話す仕組みです。

浪曲師として成功する三要素を表現したことばとして、「一声、二節、三啖呵」があり、声のよいことが第一条件で、次に聴衆をひきつける独自の節回しをもつこと、三番目に啖呵とよばれる会話や語りの部分のよしあしが重要とされています。

浪花節は、名前を見れば関西発祥のものと認識しがちですが、実際にはデロレン祭文のような関東にもある浪花節は東京発祥です。

ただし、落語のように東西の差はあまりなく、東西を股にかけた交流や旅回りが重要な部分とされています。

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「浪花節」の歴史

始まりは、他の日本の音曲と同様に、仏教とともに渡来した梵唄(ぼんばい)から派生した声明(しょうみょう)、和讃(わさん)に源を発し、これに神道(しんとう)系の山伏祭文(さいもん)から芸能化した歌祭文(うたざいもん)の要素が加わって、さらに説教節などが基調となって「弔歌連」という芸能が生まれました。

弔歌連やデロリン祭文を統合し、節の合間に語りの部分を導入して人気を集めた芸人は、浪花伊助で、さらに、義太夫や琵琶の長所を取り入れ、三味線を伴奏とした新しい芸能を京山恭安斎が創案しました。

この芸能は、関西方面で大いに歓迎され、「浮連節」として幕末期に興行され、その後は明治期半ばまでは掛け小屋で興行されましたが、大道芸人として軽んじられていました。

明治5年、東京浪花節組合が結成されて、新政府教務省の指示により芸の由来書を提出され、そのときに「浪花節」という呼称が公にされました。

その後、明治20年代頃から「浪花節」は勢力を増し、地位の高い寄席でも掛けられるようになり、関西では浮連節専門の寄席ができ、数を増やすなど広まっていきました。

明治40年には、桃中軒雲右衛門が東京の本郷座で27日間興行し、金屏風を巡らせた舞台中央に華やかなテーブルかけで覆った立ち机に、羽織袴の演者が登場したことで人気を集めました。

並んで演奏していた三味線奏者は、金屏風の陰に隠されましたが、当時の壮士の演説会を模倣した演出だと伝えられています。

しかし、一方では曲師をしていた美しい妻を隠し、観客が狂ってしまわないように配慮したとも言われています。

演題は、それまでの庶民的なものから、武士道鼓吹と称し義士伝として中心に据えられたことが特徴です。

昭和30年代に入ると、日本浪曲協会は、蔑称としても使われていた古いイメージを嫌い、「浪花節」という呼称をやめるようにNHKに要望すると、「浪曲」という名称で放送するようになりました。

その後は、レコードの全国的な普及により、浪花節の地方巡業も華々しくもてはやされました。

「芸風」の特徴

浪花節は3つの節に大別され、関西節、関東節、合いの子節があります。

関西節は、三味線の棹が太く低い調子が基本で、節が中心で節回しはバラエティに富んでいます。

主流は、恭安斎の始めた京山派と奈良丸を中心とした吉田派があり、それぞれの個性を楽しむと良いものです。

関東節は、三味線の棹が細めで高い音の連続で単調になりやすいが、その反面哀切や悲壮感を表現しやすいです。

主流は4つの派があり、駒吉を祖とする浪花亭派と、そこから独立した木村派、上州祭文に瞽女歌をミックスした東家派、デレロン祭文を発展させた玉川派になります。

合いの子節は、関西節と関東節の間のような芸風で、伊勢祭文の流れをくんだ鼈甲斎虎丸を源流に、二代目広沢虎造が売り出し時に使った浪曲師の多くが取り入れました。

独断と偏見で選んだ「浪曲師」5人

「二代目 京山幸枝若」

兵庫県姫路市で生まれ、昭和48年に父の初代京山幸枝若に弟子入りし、福太郎を襲名。

声や節はまさに父譲りで、若くして人気者になりました。

浪曲といえば堅苦しいイメージがありますが、わかりやすく楽しくすることをモットーに日々精進しています。

会津の小鉄シリーズや左甚五郎シリーズなどの代表作があり、オリジナルの演歌を多く世に出すなど活躍の場が広いです。

現在は、社団法人浪曲親友協会の会長を務め、若手の育成にも精力的で現代的な浪曲のあり方をに向き合って浪曲の復興に力を注いでいます。

演技がうまく、聞くだけで雰囲気が伝わるため、日本一の浪曲師として多くのファンを集めています。

「松浦四郎若」

愛媛県西宇和郡の出身で、サラリーマンから浪曲師を志したユニークな経歴が特徴。

昭和45年に松浦四郎に師事して今年で50年目になり、勧進帳や太閤記など多数の古典の演目が得意です。

また、新作にも精力的に取り組む姿勢が魅力で、一心寺での活躍が評価され平成21年度文化庁芸術祭大衆芸能部門優秀賞を受賞しました。

この姿勢や経歴は、浪曲界を牽引する演者とも言われ、師匠と同様に決して出すぎず目立ちたがらず、周囲への気配りで芸道に対し精進を積み重ねる姿は、まさにいぶし銀そのものです。

このため、浪曲人の理想像として信頼を集め、多くの若手があこがれる存在として注目されています。

「二代目 京山小圓嬢」

初舞台は72年前と浪曲師のベテランで、年齢を重ねるごとに芸に深みが増しています。

女性ながら全身からは熱い情念がほとばしり、関西の浪曲界を牽引する存在。

なかでも、演題の壺坂霊験記は、大きな河のごとくゆったりとした節の運びと、大ベテランらしくメリハリの利いた台詞と、心の琴線に触れるリズムの絶妙な兼ね合いで、観客を虜にしました。

平成6年より始まった一心寺門前浪曲寄席は今でも継続され、地道に努力を積み重ねて若い世代を積極的に登用して育てるなど評価されています。

「三原佐知子」

三重県熊野市出身で、昭和29年に近江勝に入門。

近江五十鈴を名乗り、24年後に三原佐知子に改名しました。

母恋あいや節は、芸風を確立させるきっかけになり、女流浪曲の第一人者として舞台、テレビ、ラジオと幅広く活躍しました。

演目演出では新しい試みを常に行い、ポピュラーのアレンジを効かした新作やヒロシマの悲劇を題材に平和への祈りを込めた「はばたけ千羽鶴」など、幅広いレパートリーが特徴です。

平成15年に大阪文化祭賞を受賞し、人物の描写が声節の良さでともに表現されることで聴く者を物語の世界に引き込む力があります。

「京山幸枝司」

大阪府藤井寺市出身で、地元の河内音頭のならした明るさいっぱいの舞台が特徴。

現在は、公益社団法人浪曲親友協会理事を務めています。

河内音頭三音家浅丸の弟子としてデビューし、三音家浅明と名乗り活躍。

その後、昭和61年に京山幸枝栄の弟子となり京山宗若と改名し、櫓の上で鍛えた喉が自慢。

節の良さは絶品で、楽器もこなせるなど多彩な才能があります。

平成22年大阪府知事表彰と文化功労賞を受賞し、翌年の1月4日には阿倍野区民センターで浪曲親友協会主催の「初夢で見たよ、聞いたよ浪曲節」の舞台で、二代目京山幸枝司を襲名現在に至っています。

まとめ

いかがでしたか。

浪花節といえば浪曲と呼ばれ、関西風と関東風があり、うまく聞き分けると楽しくなります。

歴史は800年前に元の形は作られていましたが、1872年から使われ、戦後は不適切な言葉に当たるため浪曲として表記されるなどユニークです。

皆さんも、古きよき日本の文化を今に伝える浪花節の世界を楽しんでみませんか。

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